裏千家十六代 玄黙宗室 坐忘斎

1956年、裏千家十五代汎叟宗室鵬雲斎の長男として誕生し、同志社大学文学部心理学科卒業後の2002年12月に鵬雲斎家元の跡を継ぎました。

今現在でも多種多様な活動を行っている玄黙宗室は、文筆家としての活動も盛んに出版作業を行っております。茶人としても多数の作品を展示しており、襲名から僅か半年の間に50点以上の作品や好み物を発表し、活発的な活動から様々な作品の製作意欲の高さを感じさせられます。

現在は若い茶道人の育成と、茶道文化を明確化することに力を注いでいます。

小堀 遠州

小堀 遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人・作庭家・建築家です。

「遠州」という名前は通称であり、本名は「小堀 政一」です。

1579年、近江国(現在の滋賀県)に生まれた遠州は、父親から英才教育を受けて育ちました。
1593年より「古田織部」から茶の湯を学び、茶道や建築など様々な分野で活躍しました。

「名人になる」と織部に評価され、古田や千利休の流派を基盤とした「遠州流」という流派を確立しました。
簡素な中に華やかさを交えた小堀独自の美意識は、「綺麗さび」という言葉で知られています。

生涯で400回もの茶会を開催し、幅広い階層の人々と交流を深めました。

彼が建築や造園に携わった代表的な作品には、『南禅寺金地院』『桂離宮』『仙洞御所』などがあります。

表千家十代 祥翁宗左 吸江斎

表千家十代 祥翁宗左 吸江斎についてご紹介いたします。

主な功績としては、千利休の二百五十回忌を主催したことや、若くして家元を継承し、徳川治宝から茶の教わりつつ19歳の時に皆伝を授かるなど、若くから表千家を支えたことが挙げられます。

吸江斎は久田家七代 皓々斎宗也の次男として生まれ、表千家九代・了々斎の甥にあたります。
了々斎には嫡男がいましたが早世してしまい、了々斎もまたその2年後に病死してしまいます。そこで表千家は後継問題に直面することとなりました。

養子として表千家に迎えられた吸江斎は了々斎の亡き後、わずか8歳の齢にして表千家十代家元を襲名します

十歳になると、かつて了々斎も仕えた紀州徳川家十代藩主 徳川治宝に出仕し、1836年には治宝から真台子の点前の皆伝を受けるという異例の待遇を受けました。

吸江斎が幼少で家元を継いだため、皆伝は一時的に先代の了々斎から治宝に預けられていました。その後、吸江斎に返されたという経緯があります。

1839年には、二十歳前後にして千利休の二百五十回忌を主催します。この行事を通じて、利休の精神を後世に伝えることに貢献し、茶道文化の継承と発展に寄与しました。

この様に吸江斎は若くして千家の茶の湯を引き継ぎ、表千家の活動に精力的に取り組みました。

好み物としては、溜二重棚手付桐煙草盆などが知られています。

 

 

表千家九代 曠叔宗左 了々斎

表千家九代 曠叔宗左 了々斎についてご紹介いたします。

主な功績としては、十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、紀州徳川家との深い交流から現在の表千家の表門を拝領したことや、代楽 旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、茶道具の発展に貢献したことなどが挙げられます。

 

了々斎は、久田家六代家元・挹泉斎宗溪の長男として生まれます。
表千家八代家元 啐啄斎が後嗣の男子に恵まれなかったため、了々斎はその婿養子となり、34歳の頃に表千家の九代家元を襲名しました
その時啐啄斎は60歳程の年齢であり、入れ替わる形で隠居の身となりました。

了々斎は紀州徳川家十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、治宝から深い信頼と庇護を受けます。
治宝は歴代藩主の中でも特筆して茶道に深い造詣を持ち、了々斎の指導のもと、利休茶道の免許皆伝を受けるまでになります。

 

1819年(文政2年)には十代楽旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、他にも赤楽や黒楽の茶碗など、多くの茶道具を自ら制作しました
また、当時の千家十職のうち、楽家の楽了入や永楽家の永楽了全など、了々斎から「」の字を受けて名乗った職人もおり、その影響力の大きさがうかがえます。

晩年の1822年には、治宝を家元にむかえ茶事を執り行いました。了々斎は二条屋敷にあった武家門を拝領し、それが表千家の表門として今もなお、由緒ある門として表千家の風格を表しています。

了々斎の好み物としては、代表的なもので赤楽・黒楽茶碗が挙げられます。七代の如心斎に強い影響を受けていることから、自作の茶道具にもその精神性が反映されています。
手造 黒茶碗「長袴」という作品が残されており、手造りの筒茶碗は非常に珍しい作品となります。長男・与太郎の6歳の袴着の祝儀に際して作られ、「長袴」と命名されました。
 
他にも華やかな蒔絵を施した棗や打合盆など、了々斎の好み物の種類は多岐にわたります。

小田 雪窓

1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。
1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。

1947年、師である瑞巌老師が大徳寺の管長(代表者)に任じられ、僧堂師家の地位に就きます。その後、1955年には臨済宗大徳寺派の管長に就任しました。1966年、小田雪窓は僧侶として、また能書家として卓越した才能を発揮しながら65歳でその生涯を閉じました。

臨済宗の僧侶として最高位に就いた雪窓は、指導者として後進の育成に尽力するとともに、能書家としての活動も活発に行いました。その書は素朴ながらも格調高く、幽玄な雰囲気を漂わせる筆致が特徴です。書画のほか、雪窓の書付のある茶道具作品が現存しています。

また、茶の湯にも造詣が深かった雪窓は、茶杓や蓋置などの茶道具の制作にも携わりました。これらの作品は、彼の美意識と茶道に対する深い理解を物語っています。

立花 大亀

立花大亀は臨済宗の僧侶であり、茶道や書道、禅の世界で名を馳せた人物です。

大阪府に生まれた大亀は、22歳の時に南宗寺で得度(僧侶になるための出家)します。その後は臨済宗大徳寺派の徳禅寺住職を経て、大徳寺の住職まで務めました。1982年から1986年までは、花園大学の学長として仏教教育にも力を注ぎました。

茶道の世界では、大徳寺と茶道の深い関係を背景にその精神を広め、伝統を受け継ぎながら新たな発展をもたらしました。書家としても優れた作品を数多く残し、禅の思想を体現したその書風は高く評価されています。

また、政治家や実業家とも深く交流し、その鋭い洞察と助言から「政界の指南役」とも称され、多くの人々から信頼を集めました。

 

茶道と書道に深い造詣を持ち、茶杓や茶掛などの作品が多く残っております。

武野 紹鴎

武野紹鴎は、戦国時代の堺を拠点とした豪商であり、茶人として侘び茶の発展に大きく寄与しました。 彼は千利休の師としても知られ、茶道史において重要な位置を占める人物です。 紹鴎は、若狭国守護武田氏の一族の出身で、父とともに堺 …

村田 珠光

村田珠光は、室町時代の茶人です。 茶道における「わび茶」の先駆者として知られています。彼の茶道は、当時の華やかな茶会のスタイルとは異なり、質素で静かな美を追求し、後の茶道に大きな影響を与えました。 珠光は初め、浄土宗の称 …

千少庵

千小庵についてご紹介致します。 少庵を養子として迎えた父の千利休、実子であり三千家の祖となった千宗旦、その二人と比べると少庵は知名度も乏しく目立つような功績も多くはありません。 しかし、実は彼の尽力によって千家が現存して …

千利休(千宗易)

今回は日本史によく登場する千利休(千宗易)について、経歴と共に彼が茶道史にどのような影響を与えたのかを紹介いたします。 千利休は16世紀、名だたる戦国武将が群雄割拠していた時代において、「茶の湯(わび茶)」を大成させた茶 …