駒井哲郎(こまい てつろう)は1920年生まれの銅版画家であり、東京藝術大学の教授でもありました。
彼は油彩画や色彩版画も製作しましたが、生涯を通じてエッチングに情熱を傾け、人間の内面的な部分や幻想などをモノクロで表現しました。パウル・クレーから強く影響を受け抽象的で幻想的な物や、繊細で写実的なタッチで描かれた樹木や風景など多様なスタイルを持っています。
駒井哲郎は文学者との交流も豊富であり、詩人の大岡信や安東次男とのコラボレーションによる詩画集「からんどりえ」は同じ紙に版画と詩をする新しい試みを行った事で知られています。銅版画作品の技術や可能性を高め、業界の地位向上に大きく貢献した人物であり、その芸術性と技術の高さは広く認められています。
駒井哲郎の作品は国内外で高い評価を受けており、東京国立近代美術館、東京都現代美術館、国立国際美術館など日本各地の美術館で所蔵されています。
彼の作品の魅力は夢幻的な世界を表現しつつも、鋭い感性によって心から生まれた現実も反映している点にあります。
日本版画協会展での日本版画協会賞の受賞、日本国際美術展にてブリヂストン美術賞の受賞など56歳で亡くなるまで多くの功績を残しました。
クロード・ワイズバッシュはフランスの洋画家です。
1927年。ワイズバッシュは、フランスのティオンビルに生まれました。その後、ナンシー美術学校に学び、版画技術を習得します。1957年には、絵画や版画などを展示した自身初の個展を開催します。この個展を契機に、国際的な評価を受けることとなります。
その後もヨーロッパをはじめとした各地の版画展や絵画展に出品するなど精力的に活動し、高い評価を得るとともに、サント・エチェンヌ国立美術大学で教鞭をとるなど、知識人としても活躍していました。
ワイズバッシュといえば、音楽をモチーフとした作品が印象的です。
ヴァイオリニストやチェリストなどの音楽家が、セピア色を基調としながら鋭い線で動的に表現されているのが特徴です。ヴェートーベンやモーツァルトを愛した彼の感性と情熱が魅力となり、作品に表れているようです。
ワイズバッシュの作品は、パリ市立近代美術館をはじめとした世界各地の美術館に所蔵されています。
池田修三は、秋田県出身の木版画家です。
1922年に秋田県のにかほ市に生まれ、旧東京師範学校学校(現・筑波大学)を卒業後、秋田県の高校の美術教諭となります。その後たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻に作品が評価され画家を志すことを決意。教員を辞職し33歳で上京し版画家として活動していきます。
日本版画協会展や現代版画コンクール展などで入賞をし少しずつ評価されていきます。40歳を迎える頃にはモノクロ版画ではなく多色刷りに移行し、子供をテーマにした儚げでかわいらしい作品を作り、池田修三らしい作品として確立させました。
しかし池田修三が作り上げるセンチメンタリズムな作風は評価されず、多くの作家に酷評される結果でした。そんな評価を受けた池田修三ですが、特に気にすることなく「竹久夢二を評価したのも後世だった」と語っていました。
以降も池田修三は作風やテーマを変えることなく一貫して子供をモチーフにした作品を作り続けました。
その後は地方のカレンダーや広報誌や販促品などに版画が利用されるようになり、知名度を少しづつ上げていき全国の主要都市で個展を開くまでになりますが、2004年に82歳で亡くなってしまいました。
晩年に地元の秋田や地方において知名度は高まってはいましたが、生前に正当な評価を受けていたとは言い難く、隠れた天才として亡くなってしましました。
池田修三の死後、秋田で2012年から作り始めた季刊誌「のんびり」に、池田修三の特集を組まれたことをきっかけに、再評価され作品集の出版などが行われるようになりました。池田修三自身が言っていたように、竹久夢二のように自身の死後に高い評価がされるようになりました。
畦地梅太郎は愛媛県出身の木版画家です。
元々油彩画家を志していましたが石版印刷工などを経験した後上京し、内閣印刷局に入局すると仕事の空き時間に鉛版画を試みたことがきっかけで版画の作品を作るようになります。
1927年には日本創作版画協会第7回展に入選したことで内閣印刷局を辞し、平塚運一や恩地孝四郎を師事しながら、版画家として活動するようになります。
1937年の夏に軽井沢へ出かけた際、浅間山の風景に魅せられたことで『山』を主題として山の風景を描きはじめたことで「山の版画家」として知れ渡るようになります。
第二次世界大戦後は代表作『山男』のシリーズを発表するなど精力的な活動を続け、1999年にその生涯の幕をとじます。
作風は人物や鳥などは極限までシンプルにデザインされており、現代のイラストレーションにも通ずるようなポップさやコミカルさがあります。
山の版画においてもシンプルな作風に仕上げつつ、雄大な自然を見事に表現しています。
没後は愛媛県宇和島市に記念美術館が建てられたり、アパレルのデザインにも採用されたりと、近年再評価の著しい作家でもあります。
ジェームス・リジィは版画作品の3Dアートで世界的に有名なアーティストです。
平面作品を立体的に見せる3Dアートの先駆者として名高く、地元であるニューヨークのような都会の日常風景である喧騒をポップに表現したことが高く評価されています。
彼の作風は明るい色味が特徴で、作品全体にアメリカが持つエネルギーを感じさせるものです。当初は都会の喧騒をテーマに描いていましたが、より独自性を出すため3Dへと作品を進化させます。
これは当時活躍していたヒロ・ヤマガタや、後に3Dアートの大家となるチャールズ・ファジーノが作品に取り入れるなど大きな反響を呼びます。
世界中にファンを獲得するにまで至ると、アトランタオリンピックの公式アーティストとなりポスターを手掛け、長野オリンピックにおいてもIOC公式アーティストになるなど、活躍の場を広げていきます。
華々しい活躍を遂げたジェームス・リジィですが、2011年に惜しまれながら世を去ります。彼の作品は現在でも多くの人々に親しまれております。
昭和20年代の初めごろ、農業をしながら木彫に励んでいた初代山田昭雲。
そこへ訪ねてきた棟方志功に版画を勧められた際、彫刻刀で彫り進める棟方とは違いノミを金槌で叩きながら刻む様子に「叩き彫り」という表現をされた事で「叩き彫 山田昭雲」が生まれました。
とにかく地道に、細い線も小さな文字も、ひたすらノミでコツコツと叩いて彫るという方法が棟方にとっては新鮮だったのかもしれません。
二代目山田昭雲は、仏師初代の長男として1925年(大正14年10月10日)岡山県勝田郡に生まれ、旧制津山中学松戸高等航空機乗員養成所を卒業後、終戦を機に日本原の開拓地へ入植し、叩き彫を始めます。
1967年に第一回叩き彫昭雲展を京都で開き、 以後全国各地で200回余の「叩き彫昭雲展」を開きました。
昭和33年に離農して故郷へ帰り彫刻に専念し、昭和55年には日本原の元開拓地の一隅に工房を建てました。
二代目は叩き彫とはどんな掘り方かとよく尋ねられたそうです。その際は「コツコツとリズミカルに彫るのです」「師の門をたたくという気持ちなのです」また、「世の人々に問うという仕事なのです」と答えていたそうですが、これらは全て、初代の教えだったそうです。
現在は叩き彫三代目、尚公により祖父の作風を今に伝え続けられています。