10代の頃からレンブラントへのあこがれを持ち続け、その影響を色濃く受けた圧倒的な描写力で61年の生涯を駆け抜けた牧野邦夫の作品は、その描画力が評価され近年では注目度を高めつつあります。
1925年に東京で生まれた牧野は、レンブラントなどの画家たちに惹かれていき、10代後半には本格的に画家を目指すことを決意します。東京美術学校油画科(東京芸術大学美術部の前身)で学び、終戦を迎えた後学校を卒業します。団体などには所属せず、自身の信じる絵画の世界を追求するために創作活動を続けました。写実性が顕著に表れる作風は、没後次第に高い評価を得ていくことになります。
賞を受賞したり、数々の個展を開いたりと活動的でしたが、1986年61歳という若さで亡くなりました。彼が残した多くの作品がその後の展示会などで大きな反響を呼び、今現在注目度が高い作家として名を挙げています。
ベルト・モリゾは印象派の女性画家として知られています。
モリゾは、1841年にフランスのブールジュにて生まれました。
20歳でバルビゾン派のジャン=バティスト・カミーユ・コローに師事し、戸外での制作をはじめました。
1864年、2枚の風景画がサロンに入選。
その4年後にエドゥアール・マネと出会います。
二人は師弟として、また親友として深い友情を築き、お互いを高め合う関係となりました。
モリゾはマネの絵のモデルも多く務めています。
その後は印象派の画家や美術批評家と交流を深め、独自の様式を確立していきました。
1874年にはマネの弟と結婚し、夫の支援を受けながら精力的に制作に取り組みます。
モリゾは、日常の中にある小さな幸せを映し出した穏やかな作風が特徴です。
純粋な印象派というイメージが強く、「印象派グループにおける本当の印象派の1人」として高く評価されました。
女性ならではの視点や、柔らかな色彩表現も魅力の一つとなっています。
代表作には『アフター・ランチ』『穀物畑』『夏の日』などがあります。
エドガー・ドガは、印象派の代表的な画家として知られています。
一般的には印象派の一員とされていますが、戸外制作を好まず古典的な技法を重んじるなど、他の画家とは一線を画す存在でした。
1834年、ドガはフランスで銀行員の家に生まれました。
国立美術学校に入学し、ドミニク・アングルの弟子であるルイ・ラモートに師事します。
のちにアングルから「線を引きなさい、たくさんの線を。記憶によってでも、ものを見ながらでもかまいません。」と助言を受け、デッサンを重要視するようになりました。
当初は模写や歴史画を制作していましたが、1860年代ごろからは都市の風俗をテーマに描くようになります。
屋内で人物を描くことを好み、晩年には視力の衰えからパステル画や彫刻などを手掛けました。
ドガは鋭い観察眼を持ち、写実的かつ大胆な構図で都市の生活を描きました。
光と影のコントラストや、物語性を感じさせる空間表現などが魅力的で、彼の作品は見る者を惹きつけます。
代表作には『オペラ座のオーケストラ』『アブサン』『バレエのレッスン』などがあります。
エドゥアール・マネは、印象派の先駆けとして知られる画家です。
「見たものをそのまま表現すること」が大切だと考え、新たな様式を確立しました。
明るい色彩と明確な輪郭、平面的な構成が特徴です。
マネは、1832年にパリの裕福な家庭に生まれました。
海軍兵学校の入学試験に2度落ち、父親の許可を得て画家を目指します。
1849年から6年間トマ・クチュールのアトリエで修業し、のちにアルベール・ド・バルロワと共有のアトリエを構えました。
1859年、サロンに『アブサンを飲む男』という作品を初めて提出。
それから2年後のサロンでは『スペインの歌手』をテオフィル・ゴーティエが絶賛したことで優秀賞を受賞しました。
しかし、同時に提出していた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』は「肉親という最も神聖な絆を踏みにじっている」として批評家から非難されています。
その後もサロンや画廊に作品を提出しますが、古典的な絵画が好まれる時代にはそぐわないスタイルであったため、全く評価されませんでした。
1860年代後半から、モネ、ルノワール、ピサロなどの若手画家と交流するようになり、彼らは「バティニョール派」と呼ばれました。
1870年、普仏戦争が起こり国民軍に入隊。
混乱が落ち着いた頃にパリへ戻り、活動を再開しました。
以降、セーヌ川に浮かべたボートをアトリエにして制作を行うなどし、51歳で梅毒の症状悪化により亡くなりました。
マネは、レアリスムやジャポニスムなどを取り入れながら独自の世界を表現しました。
彼自身はサロンでの成功を夢見ていましたが、ありのままを描く作風はサロンの理想とは正反対なものでした。
生涯高い評価は得られませんでしたが、次世代の画家につながる新たな道を切り開いたのは確かです。
今では印象派の基盤を作り上げた巨匠として評価され、多くの人を虜にしています。
代表作には『オランピア』『草上の昼食』『笛を吹く少年』などがあります。
斉白石は中国湖南省出身の近代中国絵画を代表する巨匠です。
木工職人として生計を立てる傍ら独学で書がを学び、清朝末期から中華民国、さらに中華人民共和国の時代を生き抜きました。
花鳥図、魚、蝦、蟹、昆虫、野菜などい身近な題材を巧みに取り入れ、力強い筆致と独自のユーモラスな表現で知られています。水墨に鮮やかな彩色を加える独自の技法は、写実と簡潔な造形美を融合させ幅広い層に愛されました。
1953年には中国政府から「人民芸術家」の称号を授与され、1955年には国際平和会議より「世界十大文化名人」の一人に選出されるなど国内外で高い評価を受けています。晩年に至るまで創作意欲は衰えずその作風は円熟味を増し、軽妙さと深みを併せ持つ境地に達しました。
今日においても斉白石の作品は中国美術市場で極めて高い人気と評価を誇り、オークションでは高額で取引されることが多く、その芸術性と希少性は世界的に認められています。
クロード・モネは、印象派の代表的な画家です。
同じモチーフを同じ構図で、気候・季節・時間を変えて描いた『睡蓮』などの連作で知られています。
また、「印象派」という名称は、モネの代表作『印象・日の出』に由来します。
モネは、1840年にフランス・パリで生まれ、5歳でル・アーブへ移りました。
幼い頃から絵が得意で、10代後半ごろにはカリカチュア(誇張した似顔絵)を売っていました。
1858年、風景画家「ウジェーヌ・ブーダン」と出会い、油絵を学び始めます。
翌年、パリに移ってアカデミー・シュイスに入学し、ピサロと知り合いました。
その後、アルジェリアでの兵役を経てル・アーブに戻り、「ヨハン・ヨンキント」と出会います。
モネは彼を「真の師」と呼び、強く影響を受けました。
同年、再びパリに戻り「シャルル・グレール」のアトリエに入りました。
シスレー、ルノワール、バジールらと交流を深め、共に戸外制作をするようになります。
1865年、『オンフルールのセーヌ河口』『干潮のエーヴ岬』がサロンに初入選しました。
この2作はサロンの好みに合わせたため、やや古典的な作風でした。
その後、印象派に近い作風の作品を提出しましたが2度落選し、以降サロンには出品しませんでした。
サロン中心の評価制度に失望したモネは、仲間たちとともに計8回の「印象派展」を開催します。
以降も連作に取り組むなど熱心に活動し、晩年は白内障に苦しみながらも制作を続け、1926年に亡くなりました。
瞬間の光や色彩をそのまま映し出す印象派の作風は、近代美術の発展に大きな影響を与えました。
代表作には『印象・日の出』『睡蓮』『積みわら』などがあります。