どこか異国情緒漂う女性の人物画で知られる寺島龍一。一方で幼児向けの絵本や図鑑の挿絵を描くなど洋画家と絵本作家という2つの顔を持つ人物でした。
寺島は1918年に東京築地で生まれます。千葉や宇都宮に住んだ後、川端画学校で絵を学びました。1938年には東京美術学校に進学。西洋画科の小林萬吾に指導を受けています。また洋画家・寺内萬治郎にも師事しました。在学中、1941年の新文展にて『父の像』が初入選、翌年の光風会展でも入選を獲得しました。戦後も日展や光風会展で活動を続け、第13回日展では『N氏像』が特選を獲得しています。
1960年から1年半、欧州に滞在し帰国後は女性像を描くようになります。欧州はその後も繰り返し訪れ、多くの作品を描きました。晩年まで精力的に活動し、1991年に紺綬褒章を受章。翌年には日展内閣総理大臣賞を、さらに96年には日本芸術院賞恩賜賞を受賞しています。99年には日展顧問、2000年には光風会理事長となりましたが、翌2001年83歳で亡くなりました。
三岸節子らと共に女流画家協会を設立し、戦後日本の美術界に女性の存在感を知らしめた画家、それが黒田久美子です。
1914年、東京小石川に生まれ、父の仕関係で日本各地へ転居を繰り返しました。小学生の頃から絵画に興味を抱き、女学校休学中に画家・遠山清から油彩、パステル画を学びます。すぐに頭角をあらわし、1930年の名古屋市展にてパステル画「バラ」が初入選しました。1931年、洋画家・中村研一に師事、さらに翌年、岡田三郎助の女子洋画研究所で学びます。その後はかつて師事した画家たちに続くように、光風会展を主な発表の場としました。また1937年には洋画家・黒田頼綱と結婚しました。
戦後も制作に取り組み、敗戦後の光風会復興にあわせ同会の会員となります。一方で日展は1949年を最後に退きました。そして1947年、女流画家協会の設立に参加します。1960年には女流画家協会展にて船岡賞を受賞しています。個展の他、夫と共に二人展も開催した他、アトリエをおいていた世田谷区の世田谷美術館世田谷展などにも出品しました。
作品は特に静物画を好んで描き、淡い原色による彩色と、デッサンのような黒い輪郭線が特徴となっています。また植物スケッチや風景画も手がけました。
和田英作は1874年鹿児島県垂水市に生まれます。
3歳の頃に家族と共に上京し、東京府麻布区に住みます。1883年に麻布学校中等科に進学しますが1年足らずで東京府立芝区鞆絵小学校へ転校し、1887年には鞆絵小学校高等科を卒業しました。
小学校を卒業し、明治学院に入学し、上杉熊松に洋画の基礎を学びます。内国勧業博覧会で原田直次郎や曽山幸彦の絵を見たことで、本格的に洋画を学び始めます。
1891年には明治学院を中退し、曽山幸彦の洋画塾に入塾しますが、1年後に曽山自身が亡くなり1882年に原田直次郎の洋画塾・鍾美館に移り、その傍らで1883年から久保田米僊に日本画を学びました。
1884年には原田自身が病気療養となったため、黒田清輝が開設したばかりの天真道場に移ります。この時黒田は日清戦争に従軍していたため、実際には久米佳一郎の指導を受けている。
1896年には黒田清輝を中心とした白馬会の結成に参加します。
東京美術学校に西洋画科が設立されると、黒田の西洋画科教授主任に伴い藤島武二、岡田三郎助とともに助教授に就任するも、助教授という身で指導を受けることに気まずさを感じ、1897年には助教授を辞任した。
岡倉天心校長の計らいもあり、西洋画科4年級に編入学し、すぐに卒業制作に取り掛かり、初の大作となる「渡頭の夕暮」を画きあげた。
1897年西洋画科を卒業します。
1897年にオーストラリア出身の東洋美術研究家のアドルフ・フィッシャーが新婚旅行で日本訪れた際に、通訳として旅行に同行した縁もあり、1899年には、フィッシャーから日本美術の作品目録の制作を任され、ドイツに招待される。その年に文部省から西洋絵画研究のために3年間のフランス留学を命じられ、1903年の帰国までに絵画だけでなく図案、漫画、表紙絵、俳句などの制作を行い、また、充実した創作活動の中で、アカデミックな洋画描法を習得します。
日本に帰国すると東京美術学校教授に就任し博覧会に出品をしていきます。1910年には東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会出品監査委員となりました。1914年には東京大正博覧会の審査官となり、勲六等瑞宝章を受章、1919年には帝室技芸員の会員となり、1921年にアメリカ経由でパリに渡り1922年日本に帰国。勲四等瑞宝章を受章し翌年にはフランス政府より、レジオン・ドヌール勲章も受章します。
1934年に帝室技芸員を拝命されます。
1943年には文化勲章を受章し、1951年には文化功労者に選ばれます。
1951年には富士山を描きたいという思いから静岡県に移り住みますが膀胱癌を患い、1959年に逝去。85歳でした。
荒木寛畝は江戸芝赤羽橋で田中梅春の四男として生まれます。田中家は代々、増上寺の行者(出家せず俗人のまま寺の雑務を行う者)を勤めていました。両親は奉公に出す前に教養の一つとして絵を習わせようと、9歳の時に谷文晁(たにぶんちょう)系の絵師、荒木寛快に入門させる。しかし、絵を描くのが生まれ付き好きだった寛畝は算盤など、他の稽古に全く身が入らなくなり、両親は奉公に出すのを諦めました。
18歳の時に父の梅春が亡くなり、増上寺の冠誉大僧正の随身となりますが、22歳の時に師の荒木寛快から画才を見込まれ、養子となり荒木姓を継ぎ、随身を辞しました。
1856年に同じく寛快の養子で義兄である荒木寛一と共に秋月藩主黒田長元の屋敷で席画を行う。この時、長元の甥として同席していた、土佐藩主山内容堂の目に止まり、1859年土佐藩の御用絵師となります。
1872年に湯島聖堂で開かれた博覧会で出品されていた内田政雄の油彩画をみて感銘を受けます。同年、容堂が亡くなり、一時本気で殉死や出家を考えるも川上冬崖、チャールズワーグマン、国沢新九朗に洋画を学びます。
元老院の命で1879年に明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の御影を描くという大任を任された寛畝は写真を参考に下絵を描いたが満足せず、本人を写生する機会を得て描き上げたが心労からくる重圧は相当なもので、これがきっかけとなり、日本画へ復帰する。
1890年第三回内国勧業博覧会出品の孔雀図が妙技二等賞を受賞し、宮内庁格上げの栄誉を受け、60歳の還暦を過ぎてから人気が高まります。
1893年には女子高等師範学校で教鞭をとり翌年には華族女学校(現在の学習院女子中、高等科)でも講義を受け持った。1898年には橋本雅邦の後任で東京美術学校教授に就任し1900年には帝室技芸員を拝命しました。
パリ万国博覧会に孔雀図で銀牌受章、セントルイス博覧会では二等賞受章し1906年にはロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツにも推薦されます。
1907年には東京府勧業博覧会で孔雀図で金賞を受賞し、従五位に叙せられ勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となりました。
以後、多くの門下生を輩出しますが、長らく患っていた、糖尿病がもととなり、1915年に亡くなりました。享年85歳でした。
中沢弘光は東京都港区芝で旧佐土原潘士の家に生まれます。13歳の時に洋画家の曽山幸彦に入門し、洋画を学びます。曽山が没後は日本画家の堀江正章(ほりえまさあき)に師事します。
東京美術学校在学中は西洋画科選科で西洋画を学び、同大学で教授であった黒田清輝(くろだせいき)に画を学びます。在学中に黒田が中心となって創立した洋画美術団体の白馬会(はくばかい)にも参加します。白馬会の展覧会に作品を出品し活動の中心とします。1911年に白馬会は目的を達成したという理由で解散しますが、翌年1912年に白馬会の元メンバーであった杉浦非水(すぎうらひすい)や跡見 泰(あとみゆたか)らと共に美術団体の光風会(こうふうかい)を創立します。1913年にも石井拍亭(いしいはくてい)や南 薫造(みなみくんぞう)らと共に日本水彩画会を創立します。
1922年にヨーロッパに留学し1年で帰国後は出版社の金尾文淵堂(かなおぶんえんどう)や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表します。
1924年には中沢が中心となり、白日会(はくじつかい)を設立します。
1930年帝国美術院の会員となり、1937年には帝国芸術院の会員、1944年に帝室技芸員を拝命します。
1957年には文化功労者にも選ばれました。
1964年老衰のため逝去。享年90歳でした。
佐伯祐三は1898年に大阪府西成郡中津村(現:大阪市北区中津)にある光徳寺の7人兄弟の次男として生まれました。
1917年に東京の小石川(現:文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二(ふじしまたけじ)に師事します。
1918年に吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現:東京芸術学校)西洋画科に入学し、川端画学校に引き続き、藤島武二に師事します。在学中の学生時代に佐伯米子と結婚し、一年後に娘の弥智子が生まれました。妻の米子も川合玉堂(かわいぎょくどう)に画を学んだ画家でした。
1923年に東京美術学校を卒業します。同校では卒業の際に自画像を描いて母校に寄付するのがならわしになっており、佐伯の自画像も寄付されています。
1924年家族と共にパリに渡航します。この時、画家のモーリス・ド・ヴラマンクを訪ね、師事します。佐伯はヴラマンクに自身の作品「裸婦」を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!!」と言われ、強いショックを受けました。実際、この時を境に佐伯の画風は一変し、卒業制作で描いた自画像と見比べてみると違いは歴然です。またヴラマンクの一言がきっかけでこの後、精神的にも不安定になったともいわれています。
パリに渡航中に佐伯はパリの街頭風景などを数多く描きましたが佐伯の持病で結核を患っていたことや体調不良が続いたこともあり、健康を案じた家族の説得に応じ、パリ渡航から二年後の1926年に一時、日本へ帰国しました。
それから、1年後の1927年に再び、パリに渡航します。
1928年には持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となり自殺未遂を犯し、セーヌ県立のヴィル・エヴラール精神病院に入院、一切の食事を拒み、同年8月16日に衰弱死してしまいました。この時、娘の弥智子も病に倒れており、娘の看病中で妻の米子は夫の祐三を看取ることが出来ず、同じ月の30日に娘弥智子も亡くなってしまいます。
妻の米子は夫の描いた絵を亡くなってから思い出を残したいと友人、知人に頼み込んで自分の手元に祐三が描いた絵を回収しますが、すぐに売却しています。
山発産業創業者の山本発次郎が佐伯の絵を熱心に収集し、戦時中にはコレクションの収集物を疎開させますが、それでも、空襲により収集作品の8割は灰となり失ってしまいました。
現在、佐伯の作品は大阪の中之島美術館に50点、和歌山県立近代美術館に14点、その他34か所に収蔵されています。