木下孝則は、東京都出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
絵に興味を持ったきっかけは、母方の祖父でもあり西洋美術史家でもある小島喜久雄の影響でした。木下は勉学に秀でており、大学は京都大学法学部に入学します。さらには京大在学中に東京大学にも入学するという、大変なエリート学生でした。しかし、画家になりたいという夢を追いかけるため二つの大学を退学し、仲間と共に油絵を描く道に進みました。
その後は仁科会に出展し賞をもらったり、一歩ずつ画家としての道を歩んでいきました。
その歩みの中でフランスにも留学し、技術の研鑽を行いました。絵画に対する高いバイタリティを持った木下は、多くの美術会の会員になります。さらには仲間たちと新しい協会「一九三〇年協会」を立ち上げたりもしました。
木下孝則は、婦人画を多く描く穏健な写実派の作家として知られています。婦人像のモデルは若い都会的な女性が多く、作風は、わかりやすい色調を自身の優れた描写力で描く木下孝則独自の作風と言えます。戦後から書き始めたバレリーナの絵が高く評価され、注目を集めました。
婦人画以外ではバラの絵を描くことも知られており、明快な色調と優れた描写力を活かした作風で人気となっています。
金子國義は埼玉県出身の油彩画家です。
織物業を営む家庭の四男として生まれました。家庭は比較的裕福で、幼少期から図画工作に優れ、バレエも習っていました。少年時代からその才能が光る存在でした。
中学・高校を卒業後、日本大学芸術学部デザイン学科に進学。そこで歌舞伎舞台芸術家に師事し、舞台芸術を学びました。
大学卒業後はグラフィックデザインの会社に就職しましたが、わずか3ヶ月で退職。その後、独学で油絵を学び始めます。
澁澤龍彦と知り合ったことをきっかけに、本の挿絵を依頼されるようになり、その魅力的な挿絵が注目を集めました。さらに澁澤の紹介で銀座の青木画廊で個展を開くなど、知人たちの後押しもあり画壇デビューを果たします。
気まぐれで始めた油絵がつながり、画家としての人生を切り開いていった金子國義。しかし、その人生の中で大きな転機となる出来事が訪れます。
それは、イタリアのオリベッティ社が発行した絵本『不思議の国のアリス』の挿絵を担当したことでした。
このシリーズは金子國義のキャリアの中で最も有名な作品の一つとなり、彼の名を日本国内だけでなく世界的にも広めました。
金子國義の作品は、美しさを根底に持ち、本人も高い美意識を貫いていました。そのため、作品において妥協や中途半端さは一切ありません。その作風は独特で、「金子國義ワールド」とも言える妖艶で神秘的な美しさが特徴です。型にはまらず、自分らしさを前面に押し出した作品群は、現在でも世界中で愛されています。
水森亜土は、イラストレーター、歌手、女優、画家、作家など多くのジャンルで活躍しており、ご存じの方も多いかと思います。水森亜土の名を多くの人が知るようになったのは、NHKの教育番組にレギュラー出演してからではないでしょうか、その番組でもイラストを描いており可愛らしい絵柄から人気の作家となりました。
イラストレーターの才能は母譲りの物で、母親は日本画家で小さなころから絵に触れていました。習い事として絵やバレエやピアノなど多くの物に触れてきました。ハワイのに語学勉強の為に遊学していた経験があり、そこで英語とジャズに触れました。
仕事としてはまず歌手としてデビューし、舞台を経験します。イラストの仕事も傍らに行っており、その経験から劇場の看板イラストの製作をするなども行っていました。その後先ほど挙げたNHKに出演しイラストレーターとしての仕事も多く入るようになりました。
水森亜土の描く作品は、ファンシーなアニメ調の可愛らしいイラストで女性の方に大変人気です。
その人気から、多くの企業が水森亜土にマスコット作成の依頼を出し、商品広告にイラストが採用されていた。特によく描いていた猫のキャラクターは名前を「ミータン」といい、亜土ちゃんグッズの人気キャラクターでした。2003年には亜土ちゃんグッズ専門店ができるなど人気を博していました。
作家としては、長野県にある美術館に個人美術館「水森亜土館」を併設。東京弥生美術展にてイラスト原画を展示する「水森亜土展」を開催するなど大きな実績も残している。
高光一也は、石川県金沢市生まれの洋画家です。
戦後日本の洋画壇を代表する画家の一人として活躍しました。また金沢美術工芸大学教授、石川県美術文化協会理事長・顧問、石川県美術文化振興協議会委員などを歴任され、石川県の美術教育の発展などにも尽力しました。
1907年に石川県金沢市で生まれ、石川県立工業学校図案絵画科を卒業し、在学中に岸田劉生の率いる「草土社」に傾倒します。
1929年に中村健一に師事し、1932年に第13回帝展に出展した『兎の静物』が初入選を果たします。
1941年には、陸軍報道班員として徴用され、インドシナ半島に派遣された経歴を持っています。
1946年には金沢美術工芸専門学校創設に参加し、翌年講師となりました。その後は講師として後進の育成と地元石川県の美術発展に貢献する活動を続けていきます。自己の研鑽を積むためフランスへの留学も行い、帰国後は日展に出展するなど制作にも力を入れました。
作品は、健康美あふれる女性像や風景画、バラなどの静物画が描かれます。活躍した時代が美術業界のうねりの渦中にあり、写実を根幹として描きながらうねりに合わせモード的な要素も取り入れており、描くスタイルの多彩性も特徴の一つと言えます。
野呂介石は江戸時代後期に活躍した日本の文人画家です。
主に花鳥水墨画を得意とし、詩文にも定評がありました。
紀州藩に仕えており、祇園南海や桑山玉洲と共に紀州三大南画家と呼ばれています。また当時は長町竹石、僧愛石らと共に「三石」とも称されていました。
その生い立ちは紀州和歌山城下の町医の元に生まれます。10歳の頃に中国の画法を独学で得ようとしましたが上手くいかず、14歳で上京。その際に長崎派の画法を習得します。
一度郷に戻っていますが21歳で再び上京。池大雅に師事し南画を学び始めます。
京都と和歌山を10年間行き来しながら毎日山水画を描くことを日課としていました。
28歳の時に師の池大雅を失う。その後桑山玉洲らと交流し名を成すようになります。
頼山陽や田能村竹田らとも交流があったとも伝えられています。
介石は画は人の為では無く、己の楽しみの為とし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、画を求道しました。
松任谷國子さんは、本業を画家としながらも、1960年代にタレントとしてデビューし名が知られるようになりました。タレント業の傍ら展覧会に出品し仁科会などでの受賞歴を残します。1966年にはローマに留学ヨーロッパを中心に展示会に出品しました。
1972年にテレビ・ラジオ等のレギュラー番組をやめ、その後ベルギーにアトリエをかまえた後、1年でニューヨークにいき、アートスチューデント・レーギュ美術大学クロッキー科留学をした後、日本で毎年個展を開いている作家になります。
本来、名の知れた作家は幼少の頃からその道の修行に入る傾向になりますが、松任谷國子はもともと画家を本業とし、タレントとして活動したのち、ローマやニューヨークに留学し絵画を学んだ経歴なので、遅めの活動と言えます。
本格的な活動は遅いですが作品の評価は高く、二科会を中心に出品し高い評価を得ています。描く絵は、独特なタッチで描かれる美人画になります。女性の美しさや表情にこだわりを持っており、松任谷國子さんの思う美しい女性像を表現しています。
松任谷國子さんには妹がおり、妹も画家として活動しています。姉妹共同での個展を開くなど姉妹共同での活動も何度か行っています。そういった多くの個展や展覧会への出品が評価され二科会の理事長に就任した経歴もあり。
確かな作画と、確かな評価を受けていたことが経歴からも想像することができます。