佐伯祐三は1898年に大阪府西成郡中津村(現:大阪市北区中津)にある光徳寺の7人兄弟の次男として生まれました。
1917年に東京の小石川(現:文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二(ふじしまたけじ)に師事します。
1918年に吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現:東京芸術学校)西洋画科に入学し、川端画学校に引き続き、藤島武二に師事します。在学中の学生時代に佐伯米子と結婚し、一年後に娘の弥智子が生まれました。妻の米子も川合玉堂(かわいぎょくどう)に画を学んだ画家でした。
1923年に東京美術学校を卒業します。同校では卒業の際に自画像を描いて母校に寄付するのがならわしになっており、佐伯の自画像も寄付されています。
1924年家族と共にパリに渡航します。この時、画家のモーリス・ド・ヴラマンクを訪ね、師事します。佐伯はヴラマンクに自身の作品「裸婦」を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!!」と言われ、強いショックを受けました。実際、この時を境に佐伯の画風は一変し、卒業制作で描いた自画像と見比べてみると違いは歴然です。またヴラマンクの一言がきっかけでこの後、精神的にも不安定になったともいわれています。
パリに渡航中に佐伯はパリの街頭風景などを数多く描きましたが佐伯の持病で結核を患っていたことや体調不良が続いたこともあり、健康を案じた家族の説得に応じ、パリ渡航から二年後の1926年に一時、日本へ帰国しました。
それから、1年後の1927年に再び、パリに渡航します。
1928年には持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となり自殺未遂を犯し、セーヌ県立のヴィル・エヴラール精神病院に入院、一切の食事を拒み、同年8月16日に衰弱死してしまいました。この時、娘の弥智子も病に倒れており、娘の看病中で妻の米子は夫の祐三を看取ることが出来ず、同じ月の30日に娘弥智子も亡くなってしまいます。
妻の米子は夫の描いた絵を亡くなってから思い出を残したいと友人、知人に頼み込んで自分の手元に祐三が描いた絵を回収しますが、すぐに売却しています。
山発産業創業者の山本発次郎が佐伯の絵を熱心に収集し、戦時中にはコレクションの収集物を疎開させますが、それでも、空襲により収集作品の8割は灰となり失ってしまいました。
現在、佐伯の作品は大阪の中之島美術館に50点、和歌山県立近代美術館に14点、その他34か所に収蔵されています。
田染幸雄は1930年に山口県徳山市に生まれます。1945年に第三海軍燃料廠幹部養成所にて就学中に終戦を迎えます。
1949年に松田康一が主宰する岩国美術研究所にて絵を学びます。
1950年徳山市で暖流会を結成します。1957年には上京し、1971年からは日本洋画壇新鋭作家展に出品を始めます。
その後、1972年~1974年まで形真展に出品し、飯田画廊にて1973年より個展を開きます。1974年新自然協会を設立し、翌年より同協会の個展に出品します。
1978年からは渡欧し二年後の1980年に、家族と共に渡仏します。一年ほど海外で過ごし日本へ帰国すると飯田画廊にて滞仏作品展を開きます。1983年銀座東京セントラル美術館「日本美術の精鋭150人ポスト・コレクション」展に出品。その後1986年に日本洋画商展に出品します。
その後各地で個展を開きました。
2007年逝去いたしました。享年76歳でした。
加来万周は1973年熊本県に生まれます。
1997年に東京藝術大学美術学部日本画専攻を卒業します。卒業制作は帝京大学が買上げました。院展も初入選し以後出品しています。
1999年には東京藝術大学大学院美術研究科日本画修士課程修了します。修了制作は帝京大学が買上げします。
2000年春の院展に初入選、以後毎年出品。臥龍桜日本画大賞展では優秀賞を受賞します。有芽の会 日本更生保護協会理事長賞受賞。墨彩画展 雪舟大賞受賞します。
2001年の院展出品作の「光路」を文化庁が買上げし、翌年の2002年に文化庁主催の現代美術選抜展にも出品します。
数々の作品を制作、出品を行い、2012年春の院展に「軌跡」を出品、奨励賞を受賞します。
現在は日本美術院院友。個展などを数多く開催し、現在も多数の作品を作成、発表しています。
師は日本画家で東京芸術大学教授、手塚雄二と発表されています。
歌川国貞は浮世絵師随一とも言われる数万点の作品を残し、国芳や広重を押さえて当時一番人気を誇った浮世絵師です。
初代歌川豊国に弟子入りし、22歳の頃の作品が最古の作品として確認され、それから79歳で亡くなるまで、歌舞伎や吉原、当時の文化風俗など、まさに「江戸文化の全て」を描き切り、浮世絵界のトップとして走り続けた大御所です。
歌川国貞は江戸で大人気の歌舞伎の舞台を描いた役者絵や、美しい女性を描いた美人画で特に名声を得ました。「役者絵」「美人画」という、浮世絵の王道ともいえる二大ジャンルで名声を得た国貞ですが、それ以外にも幅広いさまざまなジャンルに挑戦し、それぞれに優れた作品を残しています。
美人画においては文政後期(1825~)独特な猫背猪首型の女性を描いており、自信のオリジナリティを遺憾なく発揮しています。
緑和堂では、歌川国貞の作品を強化買取中でございます。売却を検討されたい作品がございましたら、ご気軽にご相談下さい。
歌川芳盛は、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師であり、歌川国芳の門人です。幼少の頃より国芳の門に入り、国芳の画風によく倣った武者絵、時局絵、花鳥画などを描きました。特に、時局を風刺した合戦絵を得意としていました。
また、嘉永3年(1850年)から嘉永4年(1851年)にかけては、草双紙の挿絵も手がけています。万延から文久(1860年 – 1864年)にかけては、「ゑぎりす人の図」「五ヶ国」「港崎横浜一覧」などの横浜絵を制作しました。さらに、「東都名所」などの作品では、江戸市中を遊覧する外国人の姿を描いており、これを手がけた絵師は芳盛以外にはあまり見当たりません。