ミュシャは、1860年のオーストリア帝国領にて生まれたアール・ヌーヴォー様式を代表する巨匠です。
ミュシャの作風は、花をモチーフとした幾何的な文様や、曲線を多用した平面的で装飾的な画面構成など典型的なアール・ヌーヴォー様式です。モデルとなる女性の個性や特徴を的確に掴みながら、視覚的な美しさを実現した特徴があります。
子供の頃までは聖歌隊に入り音楽家を目指していましたが、15歳の時に声が出なくなってしまい、合唱隊の聖歌集の表紙を描くなどしたことをきっかけに絵画に目覚めていきました。19歳でウィーンにて働きながら夜間のデッサンの学校に通うようになりました。23歳の時に失業してしまうものの、幸運にもエゴン伯爵がパトロンとなり、エゴン伯爵の援助を受けて25歳の時にミュンヘン美術学校へ留学し写実的絵画を会得しました。
パリにて大手出版社の挿絵などで生計を立てていた35歳頃に、舞台女優サラ・ベルナールをモデルにしたポスターの制作をきっかけに、瞬く間にミュシャの名はパリで広まり、一躍時代の寵児となりました。
1918年、オーストリア帝国が崩壊するとチェコスロバキア国が成立しました。
チェコを愛していたミュシャは新国家のために紙幣や切手、国章などを無償でデザインし貢献しました。
1939年、ナチス・ドイツによってチェコスロバキアは解体され、ミュシャはドイツ軍により「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で逮捕されてしまいました。それが78歳の時の出来事です。間もなく釈放されるものの、体に負荷を強いられてしまった為、4か月後に体調を崩し死去しました。
その後のミュシャ作品は、共産党政権下で黙殺され続けていましたが、プラハの春の翌年、1969年にミュシャの絵画がプリントされた記念切手数種が制作されました。
世界的にも、1960年代のアール・ヌーヴォー様式の再評価とともにミュシャ作品が改めて高い評価を受けることとなり、現在では、チェコを代表する国民的画家として広く認知されています。
ウィリム・ヘンラートはオランダ生まれの洋画家になります。
幼い頃より絵画の才能を発揮したヘンラートは、わずか16歳の時にオランダのマーストリヒト大学に入学しました。
その後、ベルギーのアントワープ美術学校で美術の教育を受け、優秀な学生だったため奨学金を受け取りながらサリーナとヴァールテンという有名な教授を師事し、彼の芸術性に磨きをかけていきました。
1980年代にはイギリス、フランス、アメリカ、イタリアにて個展を開き、欧米で彼の名が知れ渡っていきました。1986年には名古屋でも展覧会を行っております。
ヘンラートの作風は、淡い色彩の中に人物や動物などを写実的に描きながらも、全体的に曖昧で柔らかく温かい印象を感じさせるものです。追憶を表現するかのような曖昧さの中に、はっきりとわかる強弱の加減があり、一見幻想的で、でも人物と動物たちは確かにそこにいるという強い存在感を感じ取ることができます。
一度見たら忘れないような美しい世界観を放つヘンラートの作品は、日本においても根強い人気を誇っています。
クリフトン・カーフはアメリカの版画家です。
家族全員が筆を執る画家一家に生まれ、カーフも幼少のころから絵に興味を持っていました。18歳の時に軍人画家として長崎の佐世保に訪れた際に、アメリカとは違う日本の文化・風習・風景に惹かれます。一度は帰国しますが日本への興味は尽きず、28歳の時に宣教師として日本に再来日します。最初は滋賀に住み、数年後に京都また数年後に岐阜、晩年は石川県金沢で過ごしました。
そんな日本に強く惹かれたカーフの作品は、鮮やかな色使いで繊細な線を多用して作られています。木版画という特性上、繊細な線が多ければ多いほど彫るのに手間がかかります。しかし繊細な線を多用することで作品には立体感が生まれ、奥行きを感じる事ができます。それがクリフトン・カーフの特徴ともいえます。
日本らしい風景でありながら日本らしくない絵。これは、日本人が日々何気なく見ている風景の美しさを改めて教えてくれているように感じます。カーフの目を通してみると、日本の美はこうも輝くのかと実感します。私たちが忘れている、もしくは気づいていながら日々の忙しさで感じることができていない日本を、改めて感じさせてくれる魅力ある作家です。
ジャン・デュビュッフェは1901年のフランス生まれの画家です。アール・ブリュット(生の芸術)の名付け親であり、アール・ブリュット表現の第一人者です。
そんなデュビュッフェは、ル・アーヴルで育ち、パリのアカデミー・ジュリアンに在籍しますが、半年でやめてしまい、ほとんど独学で絵を学びました。
一時期画家をやめ、ワイン事業を行っていましたが、42年に再度画家に転身し、個展を開くなど精力的に活動をしていました。
個展を開いた同じ頃から、絵を独学で学び表現する人、子供や精神病患者の作品を集め始め、大きな影響を受けます。その後デュビュッフェが描いた作品や集めた作品の事を「アール・ブリュット(生の芸術)」と呼ぶようになりました。
その後、描いた作品の特徴は年代ごとに変わり、50年代は油彩による女性像、60年代はウルループシリーズと呼ばれる、ジグソーパズルのように黒で縁取った区画内を色や模様で埋める作品を作りました。これらの作品表現は、アカデミーで学ぶ内容とは正反対で、アカデミーに批判的とも捉えられていました。しかし、そんな表現がアメリカ人に刺さり、アメリカで人気となります。
1985年にデュビュッフェは亡くなりますが、アール・ブリュットは、表現すること、生きること、人間とは何かを問う芸術ジャンルが福祉的関連から関心を集め、現在でもアール・ブリュットの第一人者として、立派な功績を残した偉大な画家となっております。
マン・レイは20世紀のアメリカ出身の画家、写真家です。
絵画や写真だけでなく、彫刻や映画製作など芸術に関して多彩な才能を持つ方でもありました。
マン・レイの作品の評価は彼の生きた時代を含めあまり高くありません。
芸術家たちからの評価も高くなく、彼のやりたいことよりも生活のための商業的イラストや写真などを製作しお金を稼いでいました。
しかし、マン・レイの思想は当時の世界に対しての批判的要素を含んでおり、第一次世界大戦を批判した「ダダイズム」というムーブメントに乗ったり、人間の奥底にある心理を表現しようとした「シュルレアリスム」という思想に傾倒し、同じ思想の人々と関わりを持ちながら活動を続けていました。
アメリカ出身であるマン・レイは30代でパリに渡り、そこで写真家としての評価が高くなっていきました。
同じ年代のシュルレアリストとして、ジョアン・ミロやパブロ・ピカソらと共に展示に参加しています。
パリでのマン・レイが一番輝いていた時期であり、多数のショートムービーを製作したり、「レイヨグラム」と呼ばれるカメラを用いずに印画紙の上に直接物を置いて感光させる方法などを発明していきました。
第二次世界大戦を機に再びアメリカへ戻り、マン・レイは得意の写真ではなく絵画での活動を始めました。しかし、当時のアメリカは新流派「抽象表現主義」が流行りだしていた時期であり、彼はそれに馴染むことができずにもがく日々が続いていました。
結局、パリへ戻り画家としての活動に専念しましたが、絵画作品が評価されることはなく、むしろ少ない機会に撮る写真の方が高く評価され、女優のカトリーヌ・ドゥヌーブの肖像などは名作とされています。
マン・レイが表舞台で活躍した時期は短かったですが、彼の残した作品は「ダダイズム」や「シュルレアリスム」を知るのに良い作品です。
定期的に日本で展覧会が行われるなどして、彼の作品を見ることができます。
楊 三郎は台湾生まれの画家です。
1907年、日本統治下の台北で誕生しました。
10歳の頃に絵の具屋に飾っていた日本人画家、塩月桃甫の作品を目にしてからその魅力に魅せられ、画家になることを志しました。
16歳頃に日本に渡り、17歳で京都の関西美術院に入学し、黑田重太郎と田中善之助に師事しました。在学中に第一回台湾美術展覧会(台展)に入選、第六回日本春陽展に入選するなど若くしてその才能を発揮していきます。
その後、数々の賞を受賞していきますが、芸術への飽くなき探究心はさらなる高みを目指そうと、25歳の頃にパリへ絵画の学習のために留学をしました。風景画を得意とする楊三郎はパリの美しい風景を描き、フランスにおいても秋サロンにて入選を果たしています。
パリ滞在中も在仏日本人画家との交流を深めており、数人の日本人仲間とシャンゼリゼ大通りを夜中に、日本の羽織袴で日本の歌を歌いながら、闊歩した事を良い思い出として日記に記しているそうです。
楊三郎にとっては、台湾出身でありながら日本が第二の故郷に感じていたのかもしれません。
パリから帰国後に台湾にて「台陽美術協會」を設立しました。これは、現在の台湾においても、台湾芸術の主流として活躍しています。
日本においても、第十三回日本春陽展に入選し、春陽会会員に推薦されるなどして、台湾と日本の双方で活躍していきました。
79歳で第十一回国家文芸賞特別貢献賞を受賞。
88歳頃に大統領表彰 華夏一等賞を受賞するなどして、台湾芸術界の最高峰の賞を受賞しています。
同年に逝去してしまいますが、民間人として初めて国葬されるなど、台湾芸術の発展に大きく貢献し、今や台湾では知らない人はいないほど偉大な方となっています。