マン・レイは20世紀のアメリカ出身の画家、写真家です。
絵画や写真だけでなく、彫刻や映画製作など芸術に関して多彩な才能を持つ方でもありました。
マン・レイの作品の評価は彼の生きた時代を含めあまり高くありません。
芸術家たちからの評価も高くなく、彼のやりたいことよりも生活のための商業的イラストや写真などを製作しお金を稼いでいました。
しかし、マン・レイの思想は当時の世界に対しての批判的要素を含んでおり、第一次世界大戦を批判した「ダダイズム」というムーブメントに乗ったり、人間の奥底にある心理を表現しようとした「シュルレアリスム」という思想に傾倒し、同じ思想の人々と関わりを持ちながら活動を続けていました。
アメリカ出身であるマン・レイは30代でパリに渡り、そこで写真家としての評価が高くなっていきました。
同じ年代のシュルレアリストとして、ジョアン・ミロやパブロ・ピカソらと共に展示に参加しています。
パリでのマン・レイが一番輝いていた時期であり、多数のショートムービーを製作したり、「レイヨグラム」と呼ばれるカメラを用いずに印画紙の上に直接物を置いて感光させる方法などを発明していきました。
第二次世界大戦を機に再びアメリカへ戻り、マン・レイは得意の写真ではなく絵画での活動を始めました。しかし、当時のアメリカは新流派「抽象表現主義」が流行りだしていた時期であり、彼はそれに馴染むことができずにもがく日々が続いていました。
結局、パリへ戻り画家としての活動に専念しましたが、絵画作品が評価されることはなく、むしろ少ない機会に撮る写真の方が高く評価され、女優のカトリーヌ・ドゥヌーブの肖像などは名作とされています。
マン・レイが表舞台で活躍した時期は短かったですが、彼の残した作品は「ダダイズム」や「シュルレアリスム」を知るのに良い作品です。
定期的に日本で展覧会が行われるなどして、彼の作品を見ることができます。
楊 三郎は台湾生まれの画家です。
1907年、日本統治下の台北で誕生しました。
10歳の頃に絵の具屋に飾っていた日本人画家、塩月桃甫の作品を目にしてからその魅力に魅せられ、画家になることを志しました。
16歳頃に日本に渡り、17歳で京都の関西美術院に入学し、黑田重太郎と田中善之助に師事しました。在学中に第一回台湾美術展覧会(台展)に入選、第六回日本春陽展に入選するなど若くしてその才能を発揮していきます。
その後、数々の賞を受賞していきますが、芸術への飽くなき探究心はさらなる高みを目指そうと、25歳の頃にパリへ絵画の学習のために留学をしました。風景画を得意とする楊三郎はパリの美しい風景を描き、フランスにおいても秋サロンにて入選を果たしています。
パリ滞在中も在仏日本人画家との交流を深めており、数人の日本人仲間とシャンゼリゼ大通りを夜中に、日本の羽織袴で日本の歌を歌いながら、闊歩した事を良い思い出として日記に記しているそうです。
楊三郎にとっては、台湾出身でありながら日本が第二の故郷に感じていたのかもしれません。
パリから帰国後に台湾にて「台陽美術協會」を設立しました。これは、現在の台湾においても、台湾芸術の主流として活躍しています。
日本においても、第十三回日本春陽展に入選し、春陽会会員に推薦されるなどして、台湾と日本の双方で活躍していきました。
79歳で第十一回国家文芸賞特別貢献賞を受賞。
88歳頃に大統領表彰 華夏一等賞を受賞するなどして、台湾芸術界の最高峰の賞を受賞しています。
同年に逝去してしまいますが、民間人として初めて国葬されるなど、台湾芸術の発展に大きく貢献し、今や台湾では知らない人はいないほど偉大な方となっています。
高木 公史(たかぎ こうし)1959年~現在
東京生まれの画家になります。
『生きている絵画』
高木さんの絵は、清々しい雰囲気があり、まるで生きているかのような空気感が感じられます。
モデルになった女性、子供等の人物や自然への深い思い、愛情が伝わってきます。
人物画に関しては、切れば血が出るというな絵が、名画だと語った評論家もおりますが、
高木さんの作品は、血が出るだけでなく、絵に宿る魂が奪われ、モデルたちの思いや声が聞こえてくるかのような迫力がございます。
高木さんのベースとなっているのが、アウグスト・サンダー、ベッヒャー夫妻、トーマス・ルフらの即物的写真表現への共鳴になりますが、その驚異の細密描写で、彼らの表現をも乗り越えようとしております。
人物から花々まで、生きとして生きるものたちへの深い愛情と洞察から生まれる油彩、鉛筆、ペンによる生命感に満ちた瑞々しい作品が、多くのファンを虜にしている要因の一つだと思います。
山口 長男(やまぐち たけお)1902年11月23日~1983年4月27日
日本の洋画家であり、抽象絵画の先駆者になります。
山口さんは、生まれは韓国ソウルになり18年間韓国で生活した後、1921年19歳の時に日本に来ました。
日本では、本郷洋画研究会で岡田三郎助に師事し、20歳の時(1922年)に東京美術学校に入学されました。卒業後、渡仏してその最中パブロ・ピカソやジョルジュブラック、当時渡仏しておりました佐伯祐三に刺激を感銘を受けます。
彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形も習得に努めた方になります。
1954年~1956年以降、国外の美術展に出品し、その功績が認められ1961年芸術選奨文部大臣賞を受賞致します。
1982年には、三雲祥之助の後任として3代目無ずしの美術学園学園長に就任されました。
山口 長男さんの作品は、黒系の地に黄土色もしくは赤茶色の大きな色面を描いたもので、「ハード・エッジ」の抽象画とは違い、温かみを感じさせる作品が人気の理由だと思います。
1983年4月27日に脳梗塞の為死去致しました。享年80歳でした。
高塚 省吾(たかつか せいご)1930年7月26日~2007年5月28日
岡山県出身で、日本の洋画家になり美人画・裸婦で絶大な人気を誇った作家さんになります。
東京芸術大学で梅原 龍三郎や林武らに師事し1953年に卒業、その年恩師で日本美術会の委員長を務めておりました、硲 伊之助さんの影響から、日本アンデパンダン展第7回に出品し以後、第11回まで出品致します。
その後個展を開くが作品に恵まれず、谷 桃子バレエ団の美術担当や、1956年HNK広報室嘱託、翌年には小津 安二郎監督の映画タイトルを担当する等、多方面で活躍されました。
高塚さんは、自らの作風をみつめなすべく、禅の修行を行い1970年春陽堂版江戸川乱歩全集の表紙絵を手がけ、1978年にジャパン・エンバ美術賞入選、1979年には曹洞宗で受戒されるなど、裸婦美人画家としての名声を確立しました。
言わずと知れたフランス人画家の巨匠。世界的に認知度の高い画家です。
ミッシェル・ドラクロワは1933年のフランス・パリに生まれ、幼少期は木々や花々と触れ合いながら育ちました。1950年からはエコール・デ・ボザール(高等美術学校)で学び、舞台美術などの仕事に携わりました。
1960年頃にはフランスとドイツ、二つの美術学校で教授となり過ごします。教授としての過ごす傍ら自身の製作も進め、この頃から今の作風に近い作品を作るようになります。
その後作風が認知され始め、色んな展覧会に出品し受賞歴を残します。そこからアメリカに渡り、アメリカの作品展に出品しさらなる名声を得ることになります。その後アメリカから招待をもらったことをきっかけに教職を辞め渡米、アメリカで執筆作業に力を注ぎます。その後もオリンピックとワールドカップの公認アーティストに選出されるなどし、フランスを代表する巨匠として地位を確立しました。
ドラクロワといえば、<フランスの風景>を題材にした絵画作品が有名です。劇場で観客席から舞台を見るような平面的な構図は、遠近法を多用しないことにより鑑賞者に親しみを持たせるための表現様式と言えます。このような様式は日本画の表現方法に近く、日本人に馴染み深いためバブル期から2000年代にかけて爆発的な人気がでました。当時に比べると評価が下がってきておりますが、現在でも需要が高い作家の一人です。
パリのナイーブ美術館を始めいくつかの美術館で、永久保存作品として展示されています。パリの街並みを描いた作品は世界的にコレクターがおり、数多くの方が所有されています。