織田廣喜(1914年-2012年)は福岡県出身の「少女」をモチーフにした作品が有名な画家としてご存知の方も多いのではないかと思います。
幼い頃から父の持っていた蔵書に載っていたゴッホの絵を描くことが好きだった織田廣喜ですが、碓井尋常高等小学校高等科を卒業すると病気を患ってしまった父に代わり、家計を助ける為に陶器の絵付けなどをして働きます。日本美術学校絵画科に入学後は藤田嗣治や林武に師事します。その後は数々の賞を受賞し、1992年に勲四等瑞宝章を受章しました。
織田廣喜は前述の通り「少女」を題材とした作品を主に製作していることで有名です。中でも「赤い帽子」を被っている少女をモチーフにした作品が人気の高くなっております。
デフォルメされた女性像が特徴的で幻想的な作品を多く生み出したのは現実世界をそのまま描くのではなく、「想像し嘘をつく」といったことが絵の製作には必要であると考えた織田廣喜ならではのものです。
西山 翠嶂(にしかま すいしょう)1879年4月2日~1958年3月30日は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家になります。京都区伏見区の出身の作家で竹内栖鳳に日本画を学んだ経歴があります。1894年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、同門の西村五雲、橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せました。努力家でもあり京都市美術工芸学校へも入学し日本画の更なる研鑽に励みました。後に翠嶂は竹内栖鳳の女婿となります。その後、文展、帝展に作品を出品し受賞を重ね1929年には抵抗美術院会員に推薦されるようになり、1937年に帝展が改組された後は帝国芸術院会員を勤めるとともに新文展審査員の職責を果たしました。竹内栖鳳の死後1944年に帝室技芸員に任命され、日本画壇の長老として重んじられました。70代になっても製作を続け、栖鳳の画風を継承した翠嶂の作域は人物、花鳥、動物、風景等に及ぶがその中でも得意としたのが、京都出身ならではの円山派や四条派を範とした人物、動物画になります。翠嶂は、後進の育成にも励み、母校の都市立絵画専門学校で教授および校長を務め、1921年頃自身の画塾「青甲社」を設立し技法を指導しました。輩出者には堂本印象、中村大三郎、上村松篁、森守明等の多くの門弟がおります。晩年には日展運営会理事、芸術院会員選考委員を務め日本美術界の発展に尽力しました。これらの功績により1957年に文化勲章を受章しました。1958年に心筋梗塞により京都市東山区の自宅で死処しました。
寺崎 広業(てらさき こうぎょう)1866年4月10日~1919年2月21日 秋田に誕生した寺崎は、幼少の頃父の職業が失敗し祖母によって育てられました。幼い頃から絵を描くことが好きで、その時から優れていたといいます。高校を中退後、素麺業を行いつつ、秋田医学校にも入学したが学費が続かず退学。好きな絵の道へ戻り16歳で手形谷地町の秋田藩御用達絵師だった狩野派の小室秀俊に入門、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になり、生活はようやく安定したが絵に対する気持ちは少しも変わらなかった。寺崎は、再度放浪の旅へ出て足尾銅山で赴いて阿仁鉱山で知り合った守田兵蔵と再会し、紹介された旅館にお世話になり美人画を書きその絵で名を上げました。その後結婚し初の門下生稲田吾山を迎え入れ1898年に東京美術学校の助教授になった。校長の岡倉天心斥運動がおこり、天心派の広業は美校をやめた。岡倉と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本の門下の横山大観、下村観山らと広業もこれに参加した。1904年の日露戦争の従軍画家となり、そこで経た経験を生かして木版画による、戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いております。1912年に文展に出品した「瀟湘八景」が同名の大観の作品とならび評判作となりました。その後、1913年美術学校の日本画主任、1917年に帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つ様になったが病気を患い、1919年54歳でこの世を去りました。
グスタフクリムト(1862年~1918年)はオーストリアを代表する画家です。
1862年にウィーン郊外の金細工師の息子として生まれたグスタフクリムトは14歳でウィーン工芸美術学校に入学し、絵画を学びながら芸術カンパニーを創立し、皇帝フランツ=ヨーゼフと皇妃の銀婚式を祝う行列装飾や、ブルク劇場のウィーン美術史美術館の壁装画を手がけました。1894年にはウィーン大学大講堂の「法学」、「哲学」、「医学」の天井画の製作依頼を文科省より受けます。しかし、伝統的な様式にそぐわないと批判されて最終的には展示を取り下げました。
1900年代にグスタフクリムトは「黄金様式」を確立させます。黄金様式は金と工芸的な模様と人物を融合させたものです。この黄金様式として代表的な作品が「接吻」です。接吻には黄金の光に包まれるようにして固く向き合う男女が描かれている作品です。
黄金様式はエジプト美術や日本の金屏風に影響を受けた事や代々続く彫金師の家系に生まれていることが黄金様式という独自の作風を生み出していったのではないでしょうか。
アールデコ時代に活躍したフランスの画家、ルイ・イカ―ル(1888年~1950年)。
アールデコとは1910年~1930年代にパリを中心として栄えた装飾様式のこと指します。
アールデコと比較されるものとしてアールヌーヴォーがあります。
アールヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで流行した美術様式です。
植物や昆虫といった有機物をモチーフが多く自然な曲線や局面を用いた美術様式で、ジャポニズムも取り込んでヨーロッパを席巻しましたが、第一次世界大戦後はその装飾性の高さから大量生産に向かず、廃れてしまいます。
その後を引き継ぐように、アールデコが登場します。
アールデコはシンプルで合理的な幾何学模様をはじめとした、直線的、記号的な表現が特徴です。
大量生産と美術が組み合わさったアールデコという時代において、ルイ・イカールは多くの銅版画作品を残しました。
ルイ・イカ―ルは華やかな女性たちを繊細なタッチで表現します。そして第一次世界大戦を生き抜いた彼自身の戦争観を元にエッチング作品を多く生み出しました。
ルイ・イカ―ルの描く作品は、妖艶な魅力を放つ女性が多く、植物を添えて季節観表したり、動物と戯れる様を描いたり、女性の柔らかな体を煙草の煙で表現しておりました。
これは生涯「女性」をテーマにしたルイ・イカ―ルならではの特徴であり、現在も多くの人々を魅了していることは間違いないでしょう。
前川 強(まえかわ つよし)は、前衛芸術グループである『具体美術協会』に属する日本を代表する抽象画家、美術家の一人である。
1959年より具体美術協会の創設者である吉原治良に師事。
織りの粗い麻布(ドンゴロス)で『ひだ』を形成し、着色するというユニークな手法で絵画の制作をした。この作品が吉原治良に高く評価をされ、第8回の具体美術展に出展、1963年には具体芸術協会に入会をする事となった。
その後、前川 強は、具体美術の代表作家として、松谷武判・向井修二と共に名前のイニシャルから「3M」と呼ばれ、1966年には、グタイピナコテカにて「3M」による3人展を開催をした。
1972年には師である吉原の死去をきっかけに『具体美術協会』が解散されるが、前川は、ミシンで細かく縫った布(リネン)による技法で絵画の制作をし、1982年には「現代日本絵画展」大賞を受賞、その後も国内で多くの賞を受賞し、偉大な功績を残した。