池田修三は、秋田県出身の木版画家です。
1922年に秋田県のにかほ市に生まれ、旧東京師範学校学校(現・筑波大学)を卒業後、秋田県の高校の美術教諭となります。その後たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻に作品が評価され画家を志すことを決意。教員を辞職し33歳で上京し版画家として活動していきます。
日本版画協会展や現代版画コンクール展などで入賞をし少しずつ評価されていきます。40歳を迎える頃にはモノクロ版画ではなく多色刷りに移行し、子供をテーマにした儚げでかわいらしい作品を作り、池田修三らしい作品として確立させました。
しかし池田修三が作り上げるセンチメンタリズムな作風は評価されず、多くの作家に酷評される結果でした。そんな評価を受けた池田修三ですが、特に気にすることなく「竹久夢二を評価したのも後世だった」と語っていました。
以降も池田修三は作風やテーマを変えることなく一貫して子供をモチーフにした作品を作り続けました。
その後は地方のカレンダーや広報誌や販促品などに版画が利用されるようになり、知名度を少しづつ上げていき全国の主要都市で個展を開くまでになりますが、2004年に82歳で亡くなってしまいました。
晩年に地元の秋田や地方において知名度は高まってはいましたが、生前に正当な評価を受けていたとは言い難く、隠れた天才として亡くなってしましました。
池田修三の死後、秋田で2012年から作り始めた季刊誌「のんびり」に、池田修三の特集を組まれたことをきっかけに、再評価され作品集の出版などが行われるようになりました。池田修三自身が言っていたように、竹久夢二のように自身の死後に高い評価がされるようになりました。
レイモン・ジャン・ペイネ(Raymond Jean Peynet)
1908年 – 1999年
フランス・パリに生まれる。両親は「カフェ・ドゥ・ラ・グリル」という名のカフェを営んでいた。そこで育ったペイネは、パリの産業装飾美術学校に入学し、絵の基礎や技術を習得。卒業後は広告代理店に入社します。イラストレーター兼デザイナーとして働き、1939年の独立します。独立してすぐにフランスの英字新聞に挿絵が掲載されたことで名が知られるようになります。1942年には雑誌にペイネの代表作と言える「恋人達シリーズ」の連載が始まる。
その後は、ブリュッセル万国博で都市計画館の装飾を手掛けるなど認知度を高め、1987年に芸術・文芸勲章を受章しました。
レイモン・ペイネの作品は愛をテーマにした作品が多く、代表作となった恋人達シリーズが有名です。恋人達シリーズのモチーフは実は自身のことで、ペイネ自身と奥様がモデルとなっています。作風はメルヘン風で、色鮮やかで柔らかな雰囲気を描いています。日本でも人気が高く、愛をテーマにした作品は幸せな雰囲気に合うということで結婚式場などで飾られていたり、絵本のようなタッチで描かれており、子連れが集まる場である児童館などに飾られています。
このようにペイネの日本での人気が高いことから、1986年から日本の軽井沢にペイネの美術館が開かれており、直筆、リトグラフ、挿絵など多くのペイネ作品が展示されています。ちなみに南フランスにあるペイネ美術館の利用者の9割は日本人だと言われています。
尾身周三は、1943年新潟県に生まれ、1960年新宿造形美術卒業後現在まで日本の古民家を中心に描いている油彩画家です。
民家を写実的に20年以上描き続けてその数は数万点にも及び「民家の尾身」と言われています。民家を描き続ける理由として古き良き日本の懐かしい風景へのあこがれがあったそうです。
またこの様な田舎の風景は、土地開発なので無くなってしまう風景です。しかしそれを「仕方ないこと」と割り切りながらも絵画として残されています。
活動としてはNHKなどのテレビで特集され、無所属でありながら5回の受章歴があり、現在も民家を描きながら、都電荒川線沿線の風景など別の風景にも力を入れて精力的に活動されていらっしゃいます。
畦地梅太郎は愛媛県出身の木版画家です。
元々油彩画家を志していましたが石版印刷工などを経験した後上京し、内閣印刷局に入局すると仕事の空き時間に鉛版画を試みたことがきっかけで版画の作品を作るようになります。
1927年には日本創作版画協会第7回展に入選したことで内閣印刷局を辞し、平塚運一や恩地孝四郎を師事しながら、版画家として活動するようになります。
1937年の夏に軽井沢へ出かけた際、浅間山の風景に魅せられたことで『山』を主題として山の風景を描きはじめたことで「山の版画家」として知れ渡るようになります。
第二次世界大戦後は代表作『山男』のシリーズを発表するなど精力的な活動を続け、1999年にその生涯の幕をとじます。
作風は人物や鳥などは極限までシンプルにデザインされており、現代のイラストレーションにも通ずるようなポップさやコミカルさがあります。
山の版画においてもシンプルな作風に仕上げつつ、雄大な自然を見事に表現しています。
没後は愛媛県宇和島市に記念美術館が建てられたり、アパレルのデザインにも採用されたりと、近年再評価の著しい作家でもあります。
耳野卯三郎は大正から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。
耳野卯三郎は1891年に大阪で生まれます。
画家を目指し1907年に葵橋洋画研究所に入り絵画の技術を学び、その後東京美術学校(現材の東京芸術大学)に入学します。
初入選は1914年の第8回文展で『朝のカフェ』を出品し入選しました。
1916年に東京美術学校を卒業し文展、帝展、日展に出品を続け、1934年に帝展へ出品した『庭にて』が帝展特選の入選を果たしました。
文展、帝展、日展と数多くの場所で活動を続けていた耳野卯三郎ですが、油彩画だけでなく、童画や児童雑誌の挿絵を手掛けたことでも有名です。芸術を通して数多くの場面で活躍したことで耳野卯三郎は各方面から高い支持を集め、現在でもマニアの間では高い支持を集めております。
モイズ・キスリング(1891年~1953年)
ポーランド出身の画家になり、地元の美術学校で印象派の影響を受けユゼフ・パンキエヴィッチに師事します。19歳の時、パリを出てモンマルトで画家として本格的に絵を制作し始めます。
モイズ・キスリングさんは、第一次世界大戦と第二次世界大戦を自ら志願して従軍する。ユダヤ人だったことで、第二次世界大戦の際にナチスのユダヤ人弾圧を逃れるためアメリカに亡命し、その際ニューヨークとワシントンD.C.で展覧会を開きました。
モイズ・キスリングさんは、陽気で面倒見の良いリーダーだったそうで、モンパルナスの帝王と呼ばれていたそうです。社交的な一面もあり、芸術家以外にも映画俳優やモデル等幅広いジャンルの人々と交流があったそうです。
そんなモイズ・キスリングさんが得意していたのが、風景画、静物画、肖像画が得意としていたそうです。
モイズ・キスリングさんが制作した絵は、世界中で評判を受けスイスにあります、プティ・パレ美術館に世界最大のコレクションがあるそうです。