京都府画学校の設立に尽力し、自身の私塾でも多くの著名な画家を育てた日本画家・幸野楳嶺。その功績は近代日本画の父と呼べるものではないでしょうか。
幸野楳嶺は1844年、京都に生まれました。1852年に円山派の絵師・中島来章に入門。さらに1871年には四条派・塩川文麟に入門しました。1876年の第五回京都博覧会では褒状を獲得。さらに第一回内国絵画共進会では審査員も務めています。1878年には望月玉泉らと、京都府画学校の設立を発案し、自身も教員となりました。画学校退職後は私塾「楳嶺塾」にて後進の育成に励みました。晩年の1893年には帝室技芸員にも選抜されています。
教育者としての指導力は非常に高く、楳嶺四天王と呼ばれた菊池芳文・竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香の他、上村松園・川合玉堂といった後の日本画家を代表する人物を育成しています。栖鳳や玉堂に比べると画家としての知名度は控えめですが、若手に日本画の基礎から教え込んだ楳嶺の存在は、明治の京都日本画壇の隆盛に欠かせないものでした。
「夢二式美人画」と呼ばれる特徴的なスタイルの美人画。大正ロマンの象徴としてあげられる情感あふれるその作品は、多くの日本人を魅了しました。
夢二は1884年岡山県に生まれます。18歳の頃上京し、間もなく新聞や雑誌のコマ絵などで生活をたてるようになりました。最初の妻、たまきとの生活の中で生み出された夢二独自の美人画は、書籍の表紙や挿絵、広告などで大衆の間で人気となります。中央の画壇には最後まで属さず、生活や産業と結びついた商業美術の概念を作り上げた先駆者ともいえる彼の存在は、現在のイラストレーター・グラフィックデザイナーの始祖といえるのかもしれません。
画壇には属しませんでしたが、洋画家・岡田三郎助や画家・有島生馬との交流を持っていたほか、欧州の美術界の動向にも敏感で、常に情報収集を行い、自身の作品にもその成果を反映させています。
また、1914年には日本橋呉服町に自身の店「港屋絵草紙店」を開店。夢二がデザインした小物などは、当時の若い女性たちに大人気となりました。
夢二の作品は非常に多岐にわたり、書籍の表紙絵や挿絵の他、日本画様式の掛軸、油彩による人物や風景画、といった芸術作品。雑貨や浴衣のデザインなども手掛けています。また、作家としても活動し、詩や童話、歌謡の作詞なども行いました。
横山大観や菱田春草らと並んで東京美術学校、日本美術院で日本画の革新に注力した画家が下村観山です。
観山は1873年、和歌山に生まれました。父や兄弟が彫刻の道へ進む中、観山は絵を学びます。師であった日本画家の繋がりから、間もなく日本画家。狩野芳崖に学ぶようになりました。さらに芳崖の知人であった橋本雅邦にも師事しています。1889年、東京美術学校一期生として日本画科に入学。このとき同期の横山大観、二期生の菱田春草らと出会います。学校卒業後はそのまま美術学校の助教授に引き抜かれるなど、早くからその才能は確かなものでした。
1898年、岡倉天心の校長辞任に続くように春草と共に学校を去ると、天心の日本美術院設立に参加。第一回院展では大観と共に最高賞の銀賞を獲得しました。1901年には美術学校に復帰するものの、1903年には文部省の支援のもとイギリスに渡ります。欧州では現地の洋画を日本画で模写するなど研究を重ね、3年ほど滞在しました。観山の欧州滞在中に美術院の活動は停滞しますが、帰国後は天心・大観・春草・木村武山に続いて茨城の五浦海岸に転居しました。また文展の設立時には審査員を務めるとともに自らも出品しています。1913年の天心の死で、観山は文展審査員を退き日本美術院の再興に集中しました。再興院展では第一回から連続して大作を発表しています。
文展を引退し在野の画家となってもその技術力は確かなものであったことから、1917年には帝室技芸員に任命されています。
古来からの大和絵の技法と朦朧体を巧みに使いこなし、さらに欧州の色彩までも学んだ観山の作品は、物議を醸すこともありましたが、近代化の波に揺れる日本の中で、日本古来の伝統美術を継承するのに大きな役割を果たしたといえるのではないでしょうか。
川端龍子は和歌山県に生まれた日本画家です。
1885年に和歌山市に生まれた川端龍子は1895年に母親・妹とともに上京し1899年に東京府立第一中学校に進学、同校から府立第三中学校が独立したタイミングで川端龍子に画家としての転機が訪れることになります。それは1904年に読売新聞が「明治三十年画史」を募集することになり、30題送った内の2題が入選し、このことがきっかけで画家を目指すこととなります。医者にさせる考えを持っていた父親を何度も説得した後に黙認という形で白馬会洋画研究所に通うことになり芸術創造への第一歩を歩き出しました。
その後、洋画を学ぶ為に渡米しますがアメリカのボストン美術館で見た「平治物語絵巻」を見て感銘を受けたことが後に日本画に転向するきっかけになったといわれております。それ以降は独創的な作品を多く描き続けた川端龍子ですが、荒々しく激しい色使いの作品は当時の日本画の逆方向であったので賛否両論ありましたが、多くの作品を発表していくことで評価が一変し、ついには文化勲章を受賞するまでになりました。
川端龍子の作品からは、常に周囲を驚かせる、そんな芸術を貫いてきたことを感じることができるのではないでしょうか。
洋画から日本画へ転向した異色の画家、小杉放庵。西洋と東洋の双方を見た彼が描く絵は、画壇でも評価され続けました。
小杉放庵は1881年、栃木県の日光に生まれました。1896年より地元の洋画家・五百城文哉に弟子入り、1900年より上京し、小山正太郎の不同舎で学びます。当初は小杉未醒の号で活動し、漫画や小説挿絵が評判となりました。日露戦争では従軍記者として戦地に渡り、漫画や戦争画を描いています。
1910年、文展出品作が3等に入賞したのが始まりとなり、翌年には『水郷』が2等を獲得します。1913年、フランスに留学しますが、現地で目にした池大雅の作品に大きく影響され、逆に日本画への関心を高めました。帰国後は横山大観と親交があったことから、日本美術院の再興にに協力し、洋画部を主宰します。その後は友人とともに春陽会を結成し、活動の主軸を移しました。昭和になると日本画作品も多く手掛けるようになり、日本芸術院の会員を辞してからは晩年まで日本画制作に専念しています。
元来洋画に東洋的趣向を取りいれていましたが、フランス留学で、西洋にとって東洋は新しいものと見られることに気づき、その後は油絵でも日本画に近い見た目になるものを、題材も日本の古典を元にしたものが増えていきます。
代表作は『水郷』や『神橋』の他、東大安田講堂の壁画などが存在します。
1999年には故郷日光に、「小杉放庵記念日光美術館」が開館しました。
畠中光享はArtist Group―風メンバーである日本画家です。
1947年に奈良市に生まれた畠中光享は大谷大学文学部史学科、京都市立芸術大学専攻科修了した後、1971年にパンリアル展(パンリアル協会)に出品しました。
1973年には山種美術館賞展(75年、77 年、89年)に出品したことを始め多くの絵画展に出品をし、1977年にはシェル美術大賞を受賞。
1978年には第1回東京セントラル美術館日本画大賞展にて大賞を受賞。以後数々の賞を受賞します。1
984~1993年には横の会、2012年からはArtist Group―風の結成に参画しており、2004年には京都府文化賞功労賞を、2014年には京都美術文化賞を受賞しております。
畠中光享の作風は描線と平面性、形の追求を核として、顔料の持つ美しさを引き出し、写生を基礎にした象徴性のある造形となっています。
また、インドの美術、特に絵画・染織・彫刻などの研究者でもあり、歴史的な作品の研究を通じてテーマを見出し、その本質や生き方を考えることを絵の制作時の信条としております。