乾山は寛文3年(1663年)京都の富裕な呉服商の三男として生まれました。尾形と聞いて尾形光琳が頭に浮かぶ人も多いと思いますが、その尾形光琳の弟が尾形乾山です。派手好きな性格の光琳と対照的に、乾山の性格は穏やかで書物や学問を愛する落ち着いた芸術家でした。それは作品にも表れ、乾山の作品は慎ましさが感じられ、親しみやすさや温かみのある印象を持ちます。
乾山は野々村仁清の元で陶芸を学び、37歳の時に京都の鳴滝に開窯します。乾山には多くの名前がありますが、陶工としての名である「乾山」が一般的です。その名前の由来となったのがこの鳴滝の地です。乾は北西を意味し、都から北西に当たるこの地から陶工の乾山と命名されました。
50歳の頃には京都の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけました。この頃には乾山が器を作り、兄の光琳が絵付けをする兄弟合作の作品も多く生まれました。
70歳の頃には江戸に移り住み陶芸の指導を行うほかに、絵画の修練を重ね絵師としても才能を発揮し始めました。高齢ながら絵師としての才能を開花させるなど、穏やかな性格の乾山は芸術においては強い気持ちをもっていたことが伺えます。乾山の日本画は陶芸作品と同じで、慎ましさと親しみやすさの中に乾山の独創的な芸術性が溢れる作品が多く、国内外を問わず多くの好事家に愛されています。
河童を好んで描いた画家で「河童の芋銭」と呼ばれた小川芋銭という画家をご存知の方も多いのではないかと思います。
江戸幕府最後の年となる慶応4年に江戸赤坂溜池の山口筑前守弘達の牛久潘邸に小川芋銭は生まれました。
牛久学舎(現在の牛久小学校)を卒業した小川芋銭は、生まれながらの虚弱体質から農業に向かないと判断され縁戚の商業見習いとして上京しました。
ですが、予想以上に厳しく体も弱かったので母の住む上杉家に引き取られました。
その後、櫻井中学校をなんと1年半という期間で卒業し本田錦吉郎に師事して洋画を学び、独学で特異な日本画の世界を切り拓いていきました。
1915年には川端龍子らと「珊瑚会」を結成し、この頃より各地を旅して小川芋銭の視点から多くの作品を生み出していきました。
1917年には展覧会に出品した水墨画が横山大観の目に留まったことがきっかけで日本画壇に入ることになりました。
小川芋銭の作品は農民の働く姿や田園風景を主題とした作品、水辺の生き物や不思議な生き物なども描きました。そこには小川芋銭の自然を愛する心やごく普通の人々や貧しい人々に寄り添う気持ちを表しているといえるでしょう。
大橋翠石は岐阜県大垣市生まれの日本画家です。日本美術史の中でも特別な存在で、世に「虎の翠石」として名高い画家です。特に長い冬毛が美しいアムールトラを多く画題に選び、その描くところの虎は毛の描写の細かさ、威風堂々とした体躯、生きているように鋭い眼光や動きを表現していると評価されています。明治33(1900)年のパリ万国博覧会で、日本人画家として唯一の金メダル(金牌)に輝き、4年後のセントルイス万国博覧会でも連続して金メダルを受賞した翠石は、当時、世界で最も高く評価された日本画家の一人でした。
大橋翠石は上京して渡辺小華(しょうか)に師事して絵を学びました。しかし翌年、師や母を立て続けに亡くして帰郷、更に濃尾大震災で被災し、父と家を失います。数々の不幸を乗り越える力を虎の絵に求めた翠石は、研鑽を重ねて独自の画風を完成しました。その後翠石は療養のため神戸の須磨に隠棲し、動物たちを描きながらたった一人で自分の芸術を追求し続けました。
徳岡神泉は京都市上京区生まれの日本画家です。1909年に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学びます。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学します。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けます。その後、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)へ進学します。
しかし、ここまで順調でしたが、思わぬ挫折を味わうことになります。当時の京都画壇では、官展に入選することが画家としての第一歩と考えられていた為、当然神泉も学校在籍時から文展へ出品しますが、ことごとく落選します。1919年、芸術上の煩悶から京都をはなれ、一時期静岡県庵原郡富士川町に住むが、1923年、画家としての再出発をかけて帰洛します。その後の歩みは順調で、1925年、第6回帝展に≪罌栗≫が初入選。第7回・第10回帝展で特選を重ねます。そして1939年、第3回新文展に出品した≪菖蒲≫において、その画業は大きな転機をむかえ、簡潔な構図と深い色調による神泉様式を確立します。
松林桂月は1876年に山口県萩市山田に生まれました。数えで18歳の年に上京し、画壇の大家・野口幽谷(1827–1898)に入門します。数年のうちに展覧会への入賞を果たすなど、みるみる頭角を現し、明治34(1901)年には同門の女流画家・松林雪貞(1880–1970)と結婚します。華麗な花鳥画を得意とした雪貞は、生涯にわたって桂月を支える大きな存在となります。
松林桂月は「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色としています。
明治・大正・昭和の日本近代画壇にあって、「南画」という分野に多大な業績を残し、文化勲章を受章しました。
緑和堂では、松林 桂月の作品を強化買取中でございます。売却を検討されたい作品がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
中路融人は1933年京都生まれの日本画家です。滋賀湖国の原風景に心惹かれ、60余年もの間その風景を追い求め描き続けました。「水と木が創作の舞台装置」とし、母の故郷・五個荘を訪れては数多くの作品を描きました。
酒屋の次男として生まれた中路融人でしたが、口べたで客の対応が苦手ということもあり。「自分は商売には向いていない」と思い、美術科の高校に進みます。しかし、日本画での成功は考えず、卒業後はデザイン事務所に就職。デザイナーとして働きながら、絵の勉強に励みました。そんな中路融人は21歳のときに大きな転機を迎えます。画塾の晨鳥社に入塾し、高名な画家の山口華楊に師事することになったのです。師から「自分の思うようにしなさい」と言われ自分の描きたいものは何かと考えた時に、子どものころによく行った母の故郷である滋賀県東近江市五個荘の風景を思い出し、自分が描きたいのはこれだと確信しました。
それから、五個荘を中心に滋賀の風景を描くようになります。湖西の堅田、雄琴、近江舞子などにも足を伸ばし筆を走らせました。琵琶湖や田園の風景は訪れるたびに違う。豊かな自然の表情を描きたいと思ったらすぐに出掛け、雑念を入れずに描く。忠実な写生で自分で感じたことを筆にのせる。これらを信条に風景画を描きました。
描いた作品は、日展などに出品し数々の賞を受賞しています。その功績が認められ、日本芸術院会員で2012年に文化功労者に選ばれました。他にも、滋賀県東近江市内の小学校での絵画教室開催や展覧会支援などで文化の発展に貢献したとして、昨年2月、同市の名誉市民に選ばれました。
中路融人の作品はデッサンを大切にし、雪に輝く伊吹山や榛の木の立ち並ぶ田園風景、葦がゆれる湖畔など、一期一会の自然の表情を豊かに表現しています。