甲斐荘楠音は京都の裕福な武士の一族の家に生まれます。
幼少期から経済的に恵まれた少年時代を送りますが身体が病弱で喘息を患っていました。京都府立第一中学校に入学すると、絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校に転校し竹内栖鳳に絵を学びますが、授業にほとんど出席していなかった為、一年留年してしまいます。
1915年に京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業後、同級生であった岡本神草、入江波光、玉村方久斗らと日本画研究集団「密栗会」を結成します。
1918年に国画創作協会に「横櫛」を出品し、密栗会の岡本神草の「口紅」と共に入賞候補に挙げられるが、審査側の「横櫛」を推薦した村上華岳と「口紅」を推した土田麦僊が互いに譲らず、結果、竹内栖鳳の仲裁の元金田和郎の「水蜜桃」が受賞となりましたが、この出来事で、新進作家の甲斐荘楠音は注目を集めます。しかし、同時に土田麦僊との確執を生む結果となりました。
1922年、日本美術展覧会(日展)に「青衣の女」が入選したことで、1924年、国画創作協会の会友になり、精力的に作品を発表したが、1928年に出品した「女と風船」は土田麦僊に「きたない絵」と称され、出品を拒絶されます。
1928年には新たに活動の場を移すため新樹社を結成しますが、1931年には会員の大量脱退という出来事が起こり、新樹社は実質解散に追い込まれます。
その後、1940年に映画監督、溝口健二と知り合ったことで、映画界に転身し、時代風俗考証家として活躍します。1953年には自ら考証家を担当した、溝口健二の映画「雨月物語」がヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞し、甲斐荘自身もアカデミー衣装デザイン賞にノミネートされます。
考証家として活躍していた甲斐荘でしたが、絵の道も諦めておらず、1949年に新たに美術団体を結成しようと試みますが、資金難のため失敗しています。1956年に溝口健二が亡くなったことで、甲斐荘自身も映画界から去り、以後は「山賊会」の活動を通じて絵の作品を出品します。
1963年に京都市美術館で開催された国画創作協会の回顧展に甲斐荘の過去の作品が出品され、再び注目を集めますが、年齢と病弱だったこともあり、晩年は数をあまり残していません。
1978年、持病の喘息の発作により死去。享年83歳でした。
伊藤小坡は三重県伊勢市宇治浦田町に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家です。歴史風俗画を得意としていました。伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれています。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始めます。1895年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いていました。彼女の作風は代表作である「虫売」は穏やかで見るものの心を和ませてくれる作品になっております。竹内栖鳳に師事してからは彼女の作風は一変し、歴史画と美人画に重きを置いて画作を展開していくことになります。歴史風俗や人物から取材した作品は、晩年の小坡作品の多くを占めるようになり、描かれた凛とした美しい女性は見る者を引き込む強い世界観を画面の中に作り出しています。
石崎光瑤は富山県南砺市に生まれの日本画家です。文展・帝展・新文展に数多くの作品を出品、京都市立美術専門学校の教授を務めるなど、大正・昭和前期を代表する日本画家として活躍しました。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意としていました。石崎光瑤は幼少より画才があり、明治29年12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事します。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻りました。これに飽き足らなくなると、師山本光一の薦めもあって1903年19歳で京都の竹内栖鳳の門に入ります。その後も帝展に出品を続け、1925年から1945年まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教員を務め、後進の育成に務めました。
平川敏夫は愛知県豊川市出身の日本画家です。平川敏夫は京都の稲石着尺図案塾で日本画の基礎的な技術を学びますが、開戦のためまもなく帰郷し、中村正義との出会いによって本格的に日本画の制作を始めるようになります。初期の作風は素朴派を思わせる幻想的な表現で漁村や夜の庭園、水辺の景色などを描き、第18回新制作展では《月の庭》など庭四題が新作家賞を受賞します。やがて画面の色調は褐色系に寄り、陰影を強調した線でフォルムを切り抜く新たな表現様式へと踏み込むようになります。1970年代からはこれらの樹木のなかに古寺の塔を配した連作を発表します。「塔は樹の魂」として画面のなかで象徴的な位置を占めます。 1980年代より画面から色彩が影を潜めるようになり、墨の濃淡を主体とした画境に到達します。
牧進は1936年、東京生まれの日本画家です。幼い頃より画を学び、川端龍子の内弟子になる。以後青龍展に出品を重ねるが青龍展解散後は、無所属画家として個展を中心とした制作活動に入ります。卓越した描写力と装飾性あふれる画風で現代日本画壇に確固たる地位を築いており、その綿密に構成された画面は、移ろいゆく日本の四季を詩情豊かに描き出しています。川端龍子の内弟子として修業を重ね、花々や生き物を描きます。一番人気のモチーフは、真っ赤な紅葉の水面を優雅に泳ぐ鯉の図です。赤や黒などの色面のバランスが良く非常に人気があります。また、竹細工の籠に生けられた四季の花々の図もシャープでリズム良く自然美を優しいまなざしでとらえた素晴らしい作品があります。
鈴木竹柏は、神奈川県逗子市生まれの日本画家です。鈴木竹柏の作品は花鳥画を多く描いていたが、47年に師の岳陵が日展に所属を変えたのに伴い自らも日展に出品するようになり、以後は風景画に重きを置くようになった。56、58年に特選と白寿賞、62年に菊花賞を受け、81年に文部大臣賞を受賞するにいたりました。 平成3年にはわずか12名しかいない日本画部門の日本芸術院会員に選ばれており、日展の会長にも選出されている。鈴木竹柏の作品は一貫して、題材である風景に内在する「気」をテーマに作品を描いています。
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