中村岳陵は、本名を中村恒吉といい、日本画家です。日本画に油絵の表現を取り入れた、独自の日本画のスタイルで注目された作家です。1890年、静岡県下田市に生まれた中村岳陵は、初期のゴーギャン、ルソーといった西洋の画家に影響を受けています。岳陵の画業は約70年に及ぶ長いものであり、その発表の場も前期の日本美術院展覧会から後期の日展へと、大きく舞台を移しています。戦後、横山大観との確執から日展に移ったと知られています。又その画題も、仏画や歴史画の伝統をふむもの、風俗画的性格のもの、更に花鳥や風景など、多岐にわたっています。しかし岳陵の作品においては、常にモチーフの細密な観察と写生が、重要な基盤となっています。
日本画家一覧
岩倉 寿
岩倉寿は香川県三豊郡山本町(現 三豊市山本町)出身の日本画家です。香川県立観音寺第一高等学校、京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)日本画科卒業。同大学専攻科修了します。京都市立芸術大学名誉教授です。京都市立美術大学在学中に日展への初入選を果たす。1959年(昭和34年)同大学卒業後、晨鳥社に入り、山口華楊に師事します。日展を中心に活躍する一方、大学に残り、後進の指導に当たってきました。1961年(昭和36年)同大学専攻科修了。1962年(昭和37年)同大学教授に就任。1972年(昭和47年)の第4回新日展では「柳図」が、続く1976年(昭和51年)の第8回新日展では「山里」が特選となります。日展評議員となった1990年(平成2年)には「晩夏」が日展内閣総理大臣賞を受賞、2003年(平成15年)は改組日展出品作「南の窓」が日本藝術院賞を受賞。岩倉寿の作品は写実を極め、風景や花鳥などの題材を伝統に根ざした淡い色調の現代的色彩表現で描きます。
国府 克
国府克は京都府京都市出身の昭和~平成時代に活躍する日本画家です。画家を志すようになった国府克は、京都市立日吉が丘高校の日本画科に入学し、本格的に絵画の基礎を学びます。卒業後も日本画家として更なる画技を身につけるために堂本印象が主宰する東丘社に入塾します。東丘社展をはじめとする、日展、京都展などで受賞を重ねるようになります。現在は日展会友、京都日本画研究会講師、京都日本画家協会理事として活躍しています。国府克は長年にわたり自然と山岳を主題に作品を制作しており、日本のみならずヒマラヤ、エベレスト、中国など海外の山を取材し描き続けています。近年では、日本の富士をテーマにした作品を多く発表しており、山々から感じられる圧倒的な生命力を写実描写で表現し、評価されています。
上村 淳之
上村松篁の子として京都に生まれる。特別科学学級での同級に、伊丹十三がいた。父同様、花鳥画を描きます。幼い頃から父松篁 の飼う小鳥達と共に過ごして来たため、鳥達が常に身近に居ることはごく自然なことでした。上村淳之は絵の道に進むと同時に奈良平城へいじょうへ移り住み、この自然豊かな中にあるアトリエ「唳禽荘」(れいきんそう)で好きな鳥たちと共に暮らしながら移ろう季節を知り、またその生き様から多くを学びとり創作活動を続けて来ました。じっくり鳥たちと向き合いながら紡ぎだされた淳之の作品からは、清澄な空間にこめられた深遠なる自然への画家の真摯な眼差しが感じられ、独自の「花鳥画の世界」を見て取れます。
緑和堂では、上村 淳之の作品を強化買取中でございます。売却を検討されたい作品がございましたら、ご気軽にお問い合わせください。
荒木 寛畝
荒木寛畝は江戸芝赤羽橋で田中梅春の四男として生まれます。田中家は代々、増上寺の行者(出家せず俗人のまま寺の雑務を行う者)を勤めていました。両親は奉公に出す前に教養の一つとして絵を習わせようと、9歳の時に谷文晁(たにぶんちょう)系の絵師、荒木寛快に入門させる。しかし、絵を描くのが生まれ付き好きだった寛畝は算盤など、他の稽古に全く身が入らなくなり、両親は奉公に出すのを諦めました。
18歳の時に父の梅春が亡くなり、増上寺の冠誉大僧正の随身となりますが、22歳の時に師の荒木寛快から画才を見込まれ、養子となり荒木姓を継ぎ、随身を辞しました。
1856年に同じく寛快の養子で義兄である荒木寛一と共に秋月藩主黒田長元の屋敷で席画を行う。この時、長元の甥として同席していた、土佐藩主山内容堂の目に止まり、1859年土佐藩の御用絵師となります。
1872年に湯島聖堂で開かれた博覧会で出品されていた内田政雄の油彩画をみて感銘を受けます。同年、容堂が亡くなり、一時本気で殉死や出家を考えるも川上冬崖、チャールズワーグマン、国沢新九朗に洋画を学びます。
元老院の命で1879年に明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の御影を描くという大任を任された寛畝は写真を参考に下絵を描いたが満足せず、本人を写生する機会を得て描き上げたが心労からくる重圧は相当なもので、これがきっかけとなり、日本画へ復帰する。
1890年第三回内国勧業博覧会出品の孔雀図が妙技二等賞を受賞し、宮内庁格上げの栄誉を受け、60歳の還暦を過ぎてから人気が高まります。
1893年には女子高等師範学校で教鞭をとり翌年には華族女学校(現在の学習院女子中、高等科)でも講義を受け持った。1898年には橋本雅邦の後任で東京美術学校教授に就任し1900年には帝室技芸員を拝命しました。
パリ万国博覧会に孔雀図で銀牌受章、セントルイス博覧会では二等賞受章し1906年にはロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツにも推薦されます。
1907年には東京府勧業博覧会で孔雀図で金賞を受賞し、従五位に叙せられ勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となりました。
以後、多くの門下生を輩出しますが、長らく患っていた、糖尿病がもととなり、1915年に亡くなりました。享年85歳でした。
加来 万周
加来万周は1973年熊本県に生まれます。
1997年に東京藝術大学美術学部日本画専攻を卒業します。卒業制作は帝京大学が買上げました。院展も初入選し以後出品しています。
1999年には東京藝術大学大学院美術研究科日本画修士課程修了します。修了制作は帝京大学が買上げします。
2000年春の院展に初入選、以後毎年出品。臥龍桜日本画大賞展では優秀賞を受賞します。有芽の会 日本更生保護協会理事長賞受賞。墨彩画展 雪舟大賞受賞します。
2001年の院展出品作の「光路」を文化庁が買上げし、翌年の2002年に文化庁主催の現代美術選抜展にも出品します。
数々の作品を制作、出品を行い、2012年春の院展に「軌跡」を出品、奨励賞を受賞します。
現在は日本美術院院友。個展などを数多く開催し、現在も多数の作品を作成、発表しています。
師は日本画家で東京芸術大学教授、手塚雄二と発表されています。
柳沢 寿江
甲斐荘 楠音
甲斐荘楠音は京都の裕福な武士の一族の家に生まれます。 幼少期から経済的に恵まれた少年時代を送りますが身体が病弱で喘息を患っていました。京都府立第一中学校に入学すると、絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校に転校し竹内 …
伊藤 小坡
伊藤小坡は三重県伊勢市宇治浦田町に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家です。歴史風俗画を得意としていました。伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれています。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、 …
石崎 光瑤
石崎光瑤は富山県南砺市に生まれの日本画家です。文展・帝展・新文展に数多くの作品を出品、京都市立美術専門学校の教授を務めるなど、大正・昭和前期を代表する日本画家として活躍しました。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮 …
平川 敏夫
平川敏夫は愛知県豊川市出身の日本画家です。平川敏夫は京都の稲石着尺図案塾で日本画の基礎的な技術を学びますが、開戦のためまもなく帰郷し、中村正義との出会いによって本格的に日本画の制作を始めるようになります。初期の作風は素 …
牧 進
牧進は1936年、東京生まれの日本画家です。幼い頃より画を学び、川端龍子の内弟子になる。以後青龍展に出品を重ねるが青龍展解散後は、無所属画家として個展を中心とした制作活動に入ります。卓越した描写力と装飾性あふれる画風で …
鈴木 竹柏
鈴木竹柏は、神奈川県逗子市生まれの日本画家です。鈴木竹柏の作品は花鳥画を多く描いていたが、47年に師の岳陵が日展に所属を変えたのに伴い自らも日展に出品するようになり、以後は風景画に重きを置くようになった。56、58年に …
柴田 是真
柴田是真は越後出身の宮彫師の子で、袋物商(煙管筒、印籠などを制作、販売)の婿養子となった柴田市五郎の子として、江戸両国橘町に生まれます。 父の市五郎は商家に入った後も彫工として宮大工の仕事に参加した職人であり、浮世絵を好 …
関 主税
関主税は、関主税は1919年に生まれた日本画家です。千葉県の生まれで、日展の理事長も歴任する日本画界の重鎮として広く知られています。その作品は自然の中を中心に題材を集めており、モダンな色彩で色どられる変幻自在なその独特 …
小室 翠雲
小室翠雲は群馬県出身の日本画家であり、南画家です。 1874年、日本画家の小室桂邨の息子として生まれます。 南画を田崎草雲に学び、日本美術協会で受賞を重ね、日本美術院の会員となり、日本画会と南画会の幹事として名声を上げま …
菅 楯彦
「浪速の絵師」と呼ばれた日本画家で関西画壇の長老と呼ばれていた人物として有名なのが菅楯彦です。 鳥取県に生まれた菅楯彦は武家社会の崩壊により日本画家であった父が絵で生計を立てることにしたことがきっかけで生後間もなく大阪に …
鹿児島 寿蔵
紙塑人形にて国の重要無形文化財に認定された福岡県出身の作家と言えば鹿児島寿蔵ではないでしょうか。 紙塑人形とは昭和初期に創生された日本人形であり、紙塑とは和紙などの繊維を煮詰めて糊などを加えてかき混ぜて作った粘土状の材料 …
守住 貫魚
文化6年7月11日(1809年8月21日)~明治25年(1892年2月26日)、幕末から明治初期の日本画家になります。現徳島県徳島市明神町で、徳島藩の鉄砲方・庄野(または新居見)幸次郎延知の子として生まれます。1824年 …
岸 竹堂
文政9年4月22日(1826年5月28日)~明治30年(1897年)7月27日は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家になりま …
狩野 永悳
文化11年12月15日(1815年1月24日)~明治24年(1891年)1月29日幕末から明治期の狩野派の絵師になります。安土桃山時代を代表する絵師で、狩野永徳と同じ読みであるが、別人になります。江戸木挽町に生まれる。狩 …
堅山 南風
1887年~1980年、熊本県熊本市出身の日本画家で、本名は堅山熊次。横山大観に認められ、院展、日展等で活躍した作家。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた作品が有名。1914年の日本芸術院再興にも加わり、銅芸術院 …
秋野 不矩
インドに魅せられてインドの風景、寺院、人々を描いた日本画家として有名なのは秋野不矩でしょう。 1908年に静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)に生まれた秋野不矩は女学校に通いながら絵の勉強をしており、19歳の頃 …
山口 華楊
山口華楊は京都府中京区の出身です。 幼い頃から粘土や筆を使って動物を写すことを好み、明治45年に小学校を卒業後、岸竹堂や竹内栖鳳の弟子である西村五雲に入門しました。 病弱だった師・五雲の勧めにより、大正5年に京都市立絵画 …
山口 素絢
江戸期の京都で隆盛を誇った日本画流派である円山応挙を祖とする「円山派」。山口素絢は応挙の弟子として円山派を代表する絵師「応門十哲」にあげられる人物です。 美人画を得意とし、優美な女性像を描き人気を博しました。一方花鳥画や …






