谷口香嶠は、明治時代から大正時代にかけて京都画壇で活躍した日本画家です。
1864年、現在の大阪府和泉市に生まれ、旧姓は辻、本名は雅秀と言います。別号として「後素斎」、「羅浮山人」、「藤原雅秀」などがあります。
1871年に京都の日蓮宗宝塔寺に預けられ、漢籍を中心とした教育を受けました。1878年には東京に出て医学を学びますが、翌年に生家に戻り家業である木綿問屋を手伝いながら『芥子園画伝』や『漢画早学』などで独学で絵を学びました。
1883年に四条派の幸野楳嶺に入門し、翌年には京都府画学校北宗画科に入学し、本格的に画業の道へ進みます。竹内栖鳳や菊池芳文、都路華香とともに「楳嶺四天王」と称されました。
また漢学者・三国幽眠に師事し、漢籍の教養を深めました。
1888年には、九鬼隆一の主導による古社寺宝物調査に参加しました。多くの古画に接したことをきっかけに、古画の研究や模写に励むようになります。
また清水六兵衛宅に寄寓して陶画を学び、工芸図案にも関心を広げました。
以降、輸出用美術染織品の大下絵の制作、能装束や刀装具などの意匠考案に幅広く取り組み、絵画だけでなく工芸分野においても重要な役割を果たしました。
1888年に『美術叢誌』の刊行に尽力し、1891年には著書『光琳画譜』を発行しました。
1895年には竹内栖鳳、菊池芳文、山元春挙と共に『雍府画帖』を出版しました。
教育者としても重要な役割を担い、1893年に京都美術学校教諭となりました。
その後、1909年から1912年まで京都市立絵画専門学校の教授となり、退官後も亡くなるまで嘱託教授として後進の指導を続けました。
1900年のパリ万国博覧会に出品した『驟雨』が銅牌を受賞するなど、国内外の博覧会でも評価を受けています。
香嶠は「有職故実」に深い知識を持ち、歴史画の分野において京都画壇を牽引する重要な存在でした。
同時に、工芸図案の分野でも高い評価を受け、近代京都における日本画と工芸の接点を体現した作家の一人といえるでしょう。
1912年岐阜県大垣市にて誕生した守屋氏は、主に歴史的な人物や物語を題材にした趣のある日本画を描く作家として知られています。
1931年に東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、戦後に総理府留学生としてイタリアに2年間留学するなど、海外にも積極的に足を運び、自身の技術や芸術的感性を高めていきました。1960年には鎌倉円覚寺金堂の天井画「白龍」を完成、1976年飛鳥保存財団に委嘱され、高松塚壁画館に展示するための壁画模写に総監督として従事するなど、国内の文化作品においても重要な活動を多く展開していきました。長年に渡る作家活動が大きく影響し、2001年には大垣市守屋多々志美術館が開館し、文化勲章を受章しました。
優雅で繊細な線描に、穏やかな色彩との調和が守屋氏の描く特徴的な作風となります。穏やかな雰囲気の中にある繊細な日本画ならではの奥深さが観る者の心まで魅了する、そんな多くの作品を世に残しています。
清水信行(しみず のぶゆき)は、日本画を中心に制作する画家です。風景画、とりわけ富士山を主題とした作品を多く手がけています。
雄大な自然景観を題材とし、なかでも富士山を描いた作品には「富岳」と題されたものが確認されています。構図としては、堂々とした山容を画面中央に据え、四季や時間の変化を背景描写によって表現する形式が見られます。
筆致は比較的明瞭で、山肌や雲の表現に厚みをもたせる点が特徴の一つといえます。
富士を描いた作品では、赤富士や雪をいただく富士など、日本的象徴性の強いモチーフが扱われ、明快な構図と鮮やかな色彩によって装飾性のある画面が構成されています。
徳力富吉郎(とくりきとみきちろう)は、明治末期から平成と長きに渡り、版画作品を世に多く残していきました。
1902年に本願寺絵所画家の家系で十一代徳力幽雪の長男として京都府京都市に生まれた徳力氏は、1923年に京都市立絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事します。その間に国画会展にて樗牛賞や国画賞を受賞するなど、国内の注目度が高まっていきました。
1929年には版画家に転向し、京都創作版画協会の創立に参加します。戦後の1946年版画製作所を設立して後進の育成にも尽力を尽くします。また、同時期に量産版画の制作にも力をいれ、一般的にも広く知られていくようになります。
その後、初の欧米を巡遊します。1966年ニューヨークにて個展を開催以降、棟方志功との共同個展を開催したり、欧米の各地で個展を開催するなど、国際的にも高い評価を受け、結果1978年に勲四等瑞宝章を受章します。
自画、自刻、自摺の創作木版画の創始者の一人とし、従来の伝統的手法に踏まえ、京都の風景などを題材に斬新で現代的なデザインを融合し、唯一無二の作風が今現在でも愛好家によって語り継がれています。
都路華香(つじかこう)は、日本の明治後期~昭和初期にかけて京都で活躍した日本画家です。
都路は京都市内で生まれ、満9歳で幸野楳嶺の画塾に入門。竹内栖鳳・菊池芳文・谷口香嶠とともに「楳嶺四天王」と称されました。明治時代後期から大きな展覧会にも参加し、内国勧業博覧会、新古美術品展などで受賞したほか、1907年の第1回文展(文部省美術展覧会)以降も出展を続けました。
彼は伝統的な四条派の写実に根ざしつつも、波や自然の動きを題材にした斬新な表現と、装飾性の強い彩色を特徴としています。また、動植物や鳥類などのモチーフも作品にみられ、自然の生命感や躍動を画面構成の中で強調していると考えられます。
また、大正時代には美術教育にも力を入れ、帝国美術院会員として活動する傍ら、京都市立絵画専門学校および京都市立美術工芸学校で教員や校長を務め、後進の育成にも尽力しました。
京都画壇を代表する画家の一人であり、現在でも専門家や愛好家の間で注目されている作家です。
土田麦僊は、大正から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、日本画における東西美術融合の融合を目指した画家の一人です。
1887年、新潟県佐渡郡に生まれ、本名は「金次」といいます。
16歳の時に京都の智積院で僧侶になるため上洛しましたが、画家という幼少からの夢を捨てきれず、同院を離れ、鈴木松年に入門し「松学」の号を受けました。
その後、第9回新古美術品展を見て、画壇の主流が創意を重んじる「新派」に移りつつあることを感じ取り、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に移り、「麦僊」の号を受け受けます。写生を基盤とする四条派の伝統に、西洋絵画の写実性を取り入れた画風を身につけました。
1909年には京都市立絵画専門学校に第一期生として入学し、西洋近代美術への理解を深めました。在学中には、小野竹喬らと「黒猫会」「仮面会」を結成し、新たな日本画表現を模索しました。
麦僊は、ルノワールやゴーギャンに代表される西洋絵画、桃山時代の障壁画、中国・宗代絵画など、東西の古典から幅広く影響を受けながら、西洋絵画と肩を並べうる日本画の創出を目指しました。その理想を実現する場として、1918年に村上華岳らとともに「国画創作協会」を結成し、西洋美術と日本画の融合を根本課題とした創作活動を展開しました。
1921年から1923年にかけてヨーロッパに遊学し、西洋美術を実見しました。とりわけイタリア・ルネサンスのフレスコ画に日本画との共通性を見出し、東西の古典を統合させようとする意欲を一層強めていきました。
1928年、国画創作協会解散後は帝展に復帰し、それまでの装飾性を重んじた作風から、より内面的で精神性の高い表現へと作風を転じます。北宋から南宋初期の絵画に学び、簡潔な線と色彩による表現を深めていきました。
晩年の画風はさらに平明となり、簡素な構成の中に気品と清澄さをたたえるものへと深化します。1934年には帝国美術院会員に推挙され、翌年の帝国美術院改組問題ではその収拾にも尽力しました。
東洋古典に根差しつつ洗礼を重ねた晩年の作品は、近代日本画の到達点の一つとして高く評価されています。