石垣定哉(いしがき さだや)は、三重県出身の洋画家で、綿密な風景画や抽象的な絵画を描くことで知られています。
1970年に愛知県立芸術大学を卒業すると、その後はニューヨークに留学し、版画等を学びます。当時のアメリカはポストモダンの流れの中にあったため、その時代で彼が得た知識や経験が、後の半抽象的な作風に影響しているのだと考えられます。
風景や人物を題材にしたものが多く、特にニューヨークや南欧、故郷の風景を描いたものが有名です。1980年代末から1990年代前半にかけて、ニューヨークの風景を半抽象的に表現した作品群が特に注目を集めました。
また、「イシガキブルー」という言葉が彼の代名詞として扱われ、その繊細かつ巧みな青の色彩には、国内外から高い評価を受けていました。
故郷である三重県東員町を始め、今もなお多くの人に愛されている作家だと言えます。
1907年に満州大連市で生まれた喜多村氏は、小学4年まで大連で過ごした後、父の転勤で日本に移り住み、そのまま京都の小学校を卒業します。その頃、学校近くに居を構えて活動していた鹿子木孟郎の写生する姿に強く憧れを覚え、彼は画家を志すようになります。
中学卒業後は、美校受験のために川端画学校へ入学し、東京美術学校を受験するも惜しくも合格を逃してしまいます。それでも諦めず独自の画風を研鑽し続け、1930年、22歳の時に若くして帝展初入選を果たします。
以降、様々な展示会への発表と修練を積み重ね、独自の色遣いと表現方法を確立していきました。
一見すると、喜多村の作品は抽象性を帯びているかのように感じられますが、それは彼自身心で直に感じたものを、その大胆な筆触でありのままに描き出しているからだと考えられます。
その心根が伝わってくる作風こそ、魅力だと言えるでしょう。
豊原国周は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。
豊原周信、歌川国貞(三代 歌川豊国)の門に入り、のちに2人の名前を合わせて「豊原国周」と名乗りました。
豊原は「役者絵」を得意とし、大胆で迫力のある大首絵が高く評価されました。
美人画においてはその繊細で優美な作風で、月岡芳年や小林清親らと肩を並べて活躍したとされています。
また、かなりの変わり者だったことでも知られており、大酒飲みで散財癖があり、生涯で117回引っ越し、さらには妻を40人以上変えたという逸話が残されています。
彼は伝統的な浮世絵の手法を受け継ぎ、移り変わる時代の中でも存在感を失わずに活躍し続けました。
自由奔放な人柄と強い創作意欲が作品に色濃く反映されており、「明治の写楽」とも称されています。
小林清親は、「最後の浮世絵師」とも称される明治時代の浮世絵師です。
浮世絵、ポンチ絵、戦争画、新聞の挿絵など多彩なジャンルで活躍しました。
1847年、江戸で幕臣の子として生まれ、15歳で元服し家督を継ぎました。
徳川家茂上洛、鳥羽・伏見の戦いに参加し、幕府崩壊後は徳川慶喜を追って静岡へ移ります。
1874年に帰京し、母の死後、浮世絵師を志すようになりました。そして1876年に『東京江戸橋之真景』『東京五大橋之一両国真景』『東京名所図』を版行し、人気絵師としての地位を確立します。
彼は「光線画」という、木版画に西洋絵画の要素を融合させた新たな様式を生み出しました。夜景や街灯の光などを輪郭線に頼らず光と影の濃淡で描くのが特徴で、ぼかしや明暗のコントラストを巧みに用いています。
彼の作品は、文明開化による都市の変化を知る資料としても高く評価されており、激動の時代を光と影を通じて詩情豊かに捉えたとして、今でも多くの人に愛されています。
渓斎英泉は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。
美人画や風景画、春画、戯作など多岐にわたる作品を手掛けました。
1790年、英泉は江戸にて武士の子として生まれました。
12歳で狩野派の絵師である「狩野白桂斎」に師事しました。
10代後半の頃に、歌舞伎狂言作者であった「篠田金治」の見習いとなります。
しかし、20歳の頃に突然父と継母が亡くなり、3人の妹を養うため狂言作者の道を諦めることになりました。
その後、「菊川英山」に師事して美人画を学び、同時に葛飾北斎宅に出入りしてその画法を学びながら、浮世絵師としての道を歩み始めます。
はじめは師にならって儚げな女性が描かれていましたが、徐々に自らの様式を確立していきました。
目は切れ長で下唇が厚く、猫背気味の艶っぽい女性像が特徴的です。
波乱万丈な人生を送った彼が表現する世界は独特ですが、その魅力に多くの人が引き寄せられました。
代表作には『夏の洗い髪美人図』『江戸日本橋 見立吉原五十三対 扇屋内 花扇』『木曽街道六十九次』などがあります。
宮永岳彦は、静岡県出身の洋画家です。油絵をはじめ、ポスターや童画、週刊漫画TIMESなどの表紙画、水墨画などを手掛けました。
宮永は第二次世界大戦の兵役後、松坂屋銀座店宣伝部に勤務する傍らで創作活動を行いました。
1974年には、ブラジルの日伯文化協会の依頼で当時の皇太子・皇太子妃の肖像画を手掛けました。
これは明治期以降、正式な許可を得て皇室を描いた唯一の作品といわれています。
この出来事をきっかけに、国際芸術文化復興会の依頼でインドネシアのスハルト大統領夫妻とその令嬢を描き、衆議院の依頼で「平和憲法公布記念式典図」と「第1回国会開会式図」を製作しました。
日本でも高い評価を得た宮永は日本芸術院賞を受賞し、1986年に二紀会理事長に就任しています。