里中 游は、1953年に兵庫県明石市で生まれた画家です。
油彩画をはじめ、グラフィックデザインや建築デザイン、商業デザイン、イラストマップなど多岐にわたって活動しています。
里中は旅行が趣味だそうで、訪れた先の田園風景や海、湖畔などを中心に描きました。新たな土地で感じる高揚感や心地よさなどが、シンプルな構図と鮮やかな色彩で表現されています。里中は自身の作品について、「見る者の心の状態によって毎日印象が変わる」と語っているそうです。
里中は個展やグループ展の開催などを行っており、現在は西明石に構えたアトリエ兼ギャラリーで活動を続けています。
亀井 至一は江戸時代末期から明治時代の石版・木版画家です。
初め、国沢新九郎と横山松三郎に師事して石版と油絵を学びました。その後、第1回内国勧業博覧会に「上野徳川氏家廟之図」を、第2回内国勧業博覧会にも作品を出品、第3回内国勧業博覧会には「美人弾琴図」を出品し、知名度を上げました。
木版画も作製していましたが、後に玄々堂印刷所に入って石版画を学びました。代表作に「日光名所」、「東海道名所」などが挙げられる他、蜷川式胤の「観古図説」などが知られています。また、矢野竜渓の政治小説『経国美談』の挿絵、東海散士の政治小説『佳人之奇遇』の挿絵などの出版文化に影響を与えました。
國領經郎は、神奈川県横浜市生まれの洋画家で、日展をはじめ国際的に活動しました。
1941年に東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科を卒業。
初めは人物画を中心に制作していましたが、1950年代後半から点描表現を試み、1960年代中頃からは「砂の風景」をテーマに砂丘・砂浜・海・鳥・若者といったモチーフで構成された静謐で詩的な世界を描くようになります。
彼の作品には、広大な砂丘を前景とし、遠景に海や波頭、鳥や人影が配されることで、時間や空間を超えたような瞑想的な雰囲気が漂っています。
数々の展覧・受賞歴もあり、1986年には第18回日展で内閣総理大臣賞を受賞、1991年には日本芸術院賞受賞と同会員に就任しています。
1999年に逝去した後も、彼の「砂の風景」シリーズは国内外で高く評価され続けています。
歌川 芳虎は、江戸時代末期から明治中期にかけて活動した浮世絵師で、師匠に歌川国芳を持ち、その門人として武者絵をはじめ、役者大首絵・美人画・横浜絵・開化絵など多彩なジャンルを手がけました。
本名は永島辰五郎(辰之助・辰三郎とも)という通説があり、画号には「一猛斎」「錦朝楼」「孟斎」などが使われたとされます。
作画期は天保年間(1830〜1844頃)から明治20年頃(1887頃)と推定されます。
芳虎の作風の特徴として、まず武者絵では国芳流の大胆で動きのある構図を継承しながら、幕末の動乱や近代化の気配を背景に描くことで新しさも併せ持っていました。
嘉永2年(1849年)閏4月に発表された錦絵「道外武者御代の若餅」では、徳川 家康の天下取りを風刺した落首に着想を得た絵を出したことで出版後すぐ没収され、芳虎本人が手鎖50日の処罰を受けたという記録があります。
また、開港後の横浜に題材を求めた「横浜絵」や、西洋文化の流入を描いた「開化絵」など、時代変化を映す作品群も多く残しています。その自由奔放な性格も語られており、師・国芳との関係をめぐって破門の経緯が残されているものの、その後も「芳虎」の名を捨てずに活躍を続けたといいます。
浮世絵という枠組み内で、伝統的な武者・役者絵から、海を通じて入ってきた異国や文明開化を描く題材へと移行する時代の“橋渡し”的な絵師としての位置づけができます。絵師としての活動期・生涯とも不確かな部分が多いですが、残された作品から当時の世相や美術の潮流を読み取る上で、重要な存在です。
画家の難波田 史男は、1941年に東京都で生まれました。
抽象画家・難波田 龍起の次男として生まれ、早くから非凡な才能を見せていました。
画家を志して文化学院美術科に入学し、池田満寿夫、村井正誠、山本蘭村らに学びますが、教育方針に馴染めず中退してしまいます。その後は早稲田大学第一文学部(美術専攻)に通い、本格的に画家の活動を始めると、個展などで発表を続けました。
1970年以降は活動の傍ら旅行をするようになりましたが、1974年の九州旅行の帰路にてフェリーから転落し、亡くなりました。
難波田の子供のなぐり描きのような淡く激しい空想世界からは、のびのびとした自由なイメージと同時に、作家自身の内にある孤独な葛藤も感じさせます。
文学や音楽を愛し、自室でレコードをかけながら表現された作品は震えるような線と透明感・湿潤さを兼ね備えた色彩が特徴です。
32歳という若さでこの世を去りますが、「夭折の画家」「青春の画家」として現在も根強い人気を誇ります。2008年には膨大な日記からの抄録(『終着駅は宇宙ステーション』幻戯書房)が刊行されており、その思索と制作に新たな注目が集まっています。
池田俊彦(いけだ としひこ)は、銅版画ならではの点描を駆使した緻密な表現方法は圧倒的で、制作活動初期より「永遠に生き老い続ける不死者達」をテーマに作品を描いております。
1980年東京都出身の池田氏が銅版画の魅力に出会ったのは、江戸川乱歩の本の表紙に描かれている「多賀新」という作家の作品を見た時でした。その美しい世界に魅了され、芸術の世界へと歩み始めました。以後、美術大へと進みますが専攻は油絵で、どうしても銅版画への想いを諦めきれず東京藝術大学大学院美術研究科(版画研究室)へと更に歩んでいきます。
卒業後は欧州へ足を運び、自身の芸術的感性を高めていきます。その後は賞を受賞したり、個展を開催したりと更に活躍の場を広げています。