山本陶秀は「備前焼」で国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された人物で「茶器の陶秀」といった別名を持っているほど、茶器では備前焼の中でも山本陶秀の作品が完成度が高い人物として有名です。
1906年に岡山県備前市伊部で生まれた山本陶秀は、15歳の時に当時の窯元で有名であった黄薇堂に弟子入りをし、陶芸の道に進んでいきます。弟子入りをした際にはすでに才能が開花しており入門してすぐに轆轤を使用して湯呑みを作陶したといった逸話が残っているほどです。その後は京都にて楠部弥弐に師事をします。
1955年には日本工芸会正会員となり、日本伝統工芸展に花入れを出展し初入選を果たしてから、数々の賞を受賞していくことになり、1959年にはブリュッセル万国博覧会にて金賞を受賞する等、国内外に渡ってその作品は高い評価を得るようになりました。そして1987年には「備前焼」にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されます。
その作品は今でも多くの方を魅了しており、端正ですが気品を感じさせる芸術的なその作風は茶人好みで高く評価され、轆轤による成形技術の高さも山本陶秀を語る上で欠かせないものとなるでしょう。
楠部彌弌は京都府に生まれた陶芸家で、数々の名品を生み出したことから天才陶芸家として評価されている人物です。
楠部彌弌といえば、彩埏の技法を独自に編み出したことで有名です。
彩埏とは独特の深い色合いが特徴であり、磁土に釉薬を混ぜてさらに何度も薄く塗り重ねることによって完成します。京焼は一般的に上絵付けの技法を用いた磁器が多く見受けられ、作家の個性が際立ちますが、楠部彌弌は伝統的な京焼をさらに発展させ、自らの技法によってより美しい磁器を世に送り出しております。
京焼の一種である、栗田焼が盛んな土地に生まれた楠部彌弌は、家業を継がずに創作で陶芸をはじめ、1913年には京都市立陶磁器試験所の特別科に学び、1918年に本格的に作陶活動をはじめました。
河井寛次郎などさまざまな陶芸家と親交を深めることにより、自らの作品にその影響が反映されていきました。1936年のパリ万国博覧会で「色絵飾壷」が受賞した後、彩埏の技法を使用した磁器を多く制作するようになり、中国古来の彩色法の研究により蒼釉などの発色法を考案し、後進の指導にも力を入れていた為、数多くの後進を輩出している等の功績は、近代陶芸界の進歩に大きく貢献しました。
近藤悠三は「染付技法」にて1977年に国の重要無形文化財に認定された京都府出身の陶芸家です。
染付とは、白い磁気に酸化コバルトを原料とする「呉須」で絵付けを施した後に透明な釉薬を掛けて焼き上げたものをいいます。もともとは14世紀初頭に中国の景徳鎮地方で編み出され、ヨーロッパやイスラム地方などに伝播し、近世の世界の陶磁器生産技術に多大な影響を与えたものであるといわれています。日本には16世紀末に、京都では18世紀後半に本格的に生産されるようになりましたが、その多くは「古染付」や「祥瑞」と呼ばれる中国製品の写しであったり、そのスタイルを中国に寄せて作陶されておりました。
近藤悠三はこの伝統的な染付技法の枠組から新しい芸術へと大きく進化させ、陶磁器染付の分野で国の重要無形文化財に認定される功績を残しました。
代表的な作品としては、近藤悠三記念館の入り口に展示されている直径126㎝、重さ100㎏にもなる当時では最大の梅染付大皿があります。
葉山有樹は、独自の技法で高い評価を得ている現代陶芸家の一人です。
1961年に同じく焼物で生計を立てていた両親のもとに生まれた葉山有樹は、当初焼物に興味がありませんでした。しかし働き口がなかった為、15歳で地元の焼物製造会社である伊万里焼窯元に入社し、多くの職人に囲まれながら毎日焼物の修行に励むこととなりました。
独立後は世界の歴史や文明、デザインを勉強し、古代の人々の願いや祈りの原点を見つめることで、作品の中に物語性を創造する独自の作風を築きます。
また「細密画」と呼ばれる普通の絵師では考えられないような細密な絵付け技法は、葉山有樹作品の最大の特徴でもあります。青海波・亀甲文・七宝文・卍文・動物文・植物文などの幾何学文様を抽象化することで文様として完成し、古代の文明・歴史などのテーマ性を感じさせる作風に仕上がります。
葉山有樹の、400年ある有田焼の伝統を受け継ぎながら独自の感性を秘めた作品群は、多くの人から人気を集めております。
明治時代から続く伝統ある陶芸一家。2020年現在4代が活躍しており、5代目を継ぐ長男と共に兵庫県の琴浦窯と山梨県大泉窯の二か所で作陶を続けております。
外科医として尼崎藩主に仕えていた和田信景の孫「和田九十郎正隆」が西宮大社村に開窯しました。「琴浦窯 和田桐山」のはじまりは、九十郎の次男「和田正兄」が尼崎市の東桜木町に移窯した際、藤原道真の「ここは殊の外よき浦なり 松は琴柱の並びたるが如し」と賛美した言葉が由来の地名「琴浦」から窯名を琴浦窯とし、陶号は豊臣家の家紋の桐にちなみ桐山としました。
当代である4代目は、3代目の長男として生まれ昭和47年から琴浦窯にて作陶を始めます。幼い頃から3代目である父の背中を見て育ってきた事もあり、その技術はとても高く評価され昭和57年以降日本陶芸展や日本伝統工芸展にて入選を果たします。平成に入ってからは日本伝統工芸展正会員として認定され、平成2年から平成4年にかけて西武百貨店開催の「CERAMICS’90~92 -伝統とその同時代性-」に出品。数々の功績を築き上げ、平成8年に4代桐山を襲名し大阪・東京その他で襲名展を開催しました。襲名以降日本国内だけでなく、フランスのパリにて個展を開催するなど活躍の場を広げていきました。
「青磁」のみを追求し続けた陶芸家・島田幸一さんです。
現在は、静岡県島田市で作陶活動を行っています。
島田幸一さんは陶芸家として美しい作品を数多く制作していますが、何よりも生き様に情熱・ロマンを感じます。
多くの有名陶芸家は代々続く陶芸一家や父を師事して志すということが多いのですが、島田さんは違います。何と社会人になってからなのです。サラリーマン時代に出張で台北を訪れた際に見た、汝窯の青磁作品の美しさに魅了されたことから陶芸家の道がはじまります。
陶芸家として走り出すのですが、汝窯の青磁の復元だけを追求し続けます。自身の努力はもちろんですが、大学研究室や田宮模型など様々な協力を得て、見事汝窯の青磁復元に成功します。
1点だけを追い続ける。島田さんの青磁作品が宝石のように美しいのは、情熱とロマンに満ち溢れているからではないでしょうか。