近藤悠三は「染付技法」にて1977年に国の重要無形文化財に認定された京都府出身の陶芸家です。
染付とは、白い磁気に酸化コバルトを原料とする「呉須」で絵付けを施した後に透明な釉薬を掛けて焼き上げたものをいいます。もともとは14世紀初頭に中国の景徳鎮地方で編み出され、ヨーロッパやイスラム地方などに伝播し、近世の世界の陶磁器生産技術に多大な影響を与えたものであるといわれています。日本には16世紀末に、京都では18世紀後半に本格的に生産されるようになりましたが、その多くは「古染付」や「祥瑞」と呼ばれる中国製品の写しであったり、そのスタイルを中国に寄せて作陶されておりました。
近藤悠三はこの伝統的な染付技法の枠組から新しい芸術へと大きく進化させ、陶磁器染付の分野で国の重要無形文化財に認定される功績を残しました。
代表的な作品としては、近藤悠三記念館の入り口に展示されている直径126㎝、重さ100㎏にもなる当時では最大の梅染付大皿があります。
葉山有樹は、独自の技法で高い評価を得ている現代陶芸家の一人です。
1961年に同じく焼物で生計を立てていた両親のもとに生まれた葉山有樹は、当初焼物に興味がありませんでした。しかし働き口がなかった為、15歳で地元の焼物製造会社である伊万里焼窯元に入社し、多くの職人に囲まれながら毎日焼物の修行に励むこととなりました。
独立後は世界の歴史や文明、デザインを勉強し、古代の人々の願いや祈りの原点を見つめることで、作品の中に物語性を創造する独自の作風を築きます。
また「細密画」と呼ばれる普通の絵師では考えられないような細密な絵付け技法は、葉山有樹作品の最大の特徴でもあります。青海波・亀甲文・七宝文・卍文・動物文・植物文などの幾何学文様を抽象化することで文様として完成し、古代の文明・歴史などのテーマ性を感じさせる作風に仕上がります。
葉山有樹の、400年ある有田焼の伝統を受け継ぎながら独自の感性を秘めた作品群は、多くの人から人気を集めております。
明治時代から続く伝統ある陶芸一家。2020年現在4代が活躍しており、5代目を継ぐ長男と共に兵庫県の琴浦窯と山梨県大泉窯の二か所で作陶を続けております。
外科医として尼崎藩主に仕えていた和田信景の孫「和田九十郎正隆」が西宮大社村に開窯しました。「琴浦窯 和田桐山」のはじまりは、九十郎の次男「和田正兄」が尼崎市の東桜木町に移窯した際、藤原道真の「ここは殊の外よき浦なり 松は琴柱の並びたるが如し」と賛美した言葉が由来の地名「琴浦」から窯名を琴浦窯とし、陶号は豊臣家の家紋の桐にちなみ桐山としました。
当代である4代目は、3代目の長男として生まれ昭和47年から琴浦窯にて作陶を始めます。幼い頃から3代目である父の背中を見て育ってきた事もあり、その技術はとても高く評価され昭和57年以降日本陶芸展や日本伝統工芸展にて入選を果たします。平成に入ってからは日本伝統工芸展正会員として認定され、平成2年から平成4年にかけて西武百貨店開催の「CERAMICS’90~92 -伝統とその同時代性-」に出品。数々の功績を築き上げ、平成8年に4代桐山を襲名し大阪・東京その他で襲名展を開催しました。襲名以降日本国内だけでなく、フランスのパリにて個展を開催するなど活躍の場を広げていきました。
「青磁」のみを追求し続けた陶芸家・島田幸一さんです。
現在は、静岡県島田市で作陶活動を行っています。
島田幸一さんは陶芸家として美しい作品を数多く制作していますが、何よりも生き様に情熱・ロマンを感じます。
多くの有名陶芸家は代々続く陶芸一家や父を師事して志すということが多いのですが、島田さんは違います。何と社会人になってからなのです。サラリーマン時代に出張で台北を訪れた際に見た、汝窯の青磁作品の美しさに魅了されたことから陶芸家の道がはじまります。
陶芸家として走り出すのですが、汝窯の青磁の復元だけを追求し続けます。自身の努力はもちろんですが、大学研究室や田宮模型など様々な協力を得て、見事汝窯の青磁復元に成功します。
1点だけを追い続ける。島田さんの青磁作品が宝石のように美しいのは、情熱とロマンに満ち溢れているからではないでしょうか。
塚本治彦は岐阜県土岐市の陶芸家です。
10代のころから作陶活動に励み、野中春清や浅井礼二郎に師事。
20代半ばで地元・岐阜県土岐市駄知町に「北斗窯」を築きます。
志野焼・織部焼を中心に、伊賀・黄瀬戸作品なども発表しています。
塚本治彦作品の特徴は何といっても「力強さ」です。陶器の重厚感、釉薬の塗り方に豪快さを感じ、備前焼のようにちょっとした衝撃であれば損傷しないのではないでしょうか(検証はしていません。個人の感想です)
織部焼の元祖・古田織部の作陶精神を守りながらも、自身のオリジナリティを存分に兼ね合わせています。
九谷焼のような絵柄の派手さは無くても、緑を基調に絶妙なグラデーションの織部釉は、飾っても使っても楽しめる逸品です。
現在も精力的に活動を行っています。熟練の技に磨きがかかり、素晴らしい作品をこれからも世に出し続けてくれることでしょう。
岩田藤七はガラス工芸で有名な工芸家です。
東京都に生まれた岩田藤七は、1911年に商工中学校を卒業後に白馬会洋画研究所で岡村三郎助に師事して洋画を学びます。東京美術学校に入学後は彫金、洋画、彫刻を学び、洋画を勉強する為に金工科を卒業した後に再度西洋画科へと再入学をしました。
1922年には建畠大夢に彫刻を学び、第4回帝展に「深き空」という彫刻作品を出品します。
1923年に西洋画科を卒業しますが、この頃よりアールヌーボーに啓発されガラス工芸を志すようになっていきました。今村繁三にガラスの手ほどきを受けた岩田藤七は、岩城ガラス研究室に通いながら帝展美術工芸部に出品し、1928年から1930年まで連続で特選に入賞するといった実績を残しました。
岩城ガラス研究室を退職後の1931年には岩田硝子製作所を設立し、ガラス工芸品を制作すると共に制作に必須な職人を育てることにも尽力しました。
1936年、第2回の個展を開催時から、勅使河原蒼風と組んで話題を集めたり、1950年には日展参事、1958年には日展顧問となりました。この間には第7回日本芸術院賞を受賞し、1954年には日本芸術院会員に推されます。
日展や日本伝統工芸展に出品したり、たびたび個展を開催し、1968年岩田藤七大回顧展(高島屋)開催を機に、「岩田藤七ガラス作品集」が刊行され、1970年に文化功労者に選ばれております。
岩田藤七の作品は色彩豊かで流動的であり、透明や切子ばかりであったガラス界に衝撃を与えたことで高い評価を受けました。また、色ガラスによる装飾壁面「コロラート」を制作し建築空間に応用することで新分野も開拓し、近代ガラス工芸に多大な功績を残した方といえるでしょう。