加藤 唐九郎

加藤唐九郎は、「永仁の壺」事件で贋作を作陶してしまった人物として良くも悪くも有名になってしまった愛知県出身の陶芸家ならびに陶磁史研究家です。
「永仁の壺」事件とは永仁二年の瓶子が鎌倉時代の古瀬戸の傑作として認定を受けます。しかし、銘文の不自然さなどから異論が相次ぎ、認定を受けた翌年に加藤唐九郎の長男が瓶子の製作に携わったことを明かします。そして、加藤唐九郎も自らの贋作であったことを明かします。
また、指定に関与していた文部技官・文化財専門審議会委員であった小山冨士夫は引責辞任、加藤唐九郎は無形文化財(人間国宝)の資格を取り消されるという美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった事件です。
このような事件で有名になってしまった加藤唐九郎ですが、日本の伝統的な造形に学び、桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた作品は現代では高い評価を受けております。
また、作品の号も年代によって変わっておりますので参考にご紹介いたします。1961年には漢学者で詩人の服部担風翁より「一無斎」の号を送られ以後、作品の銘に「一ム才」を使用する。1962年には「一ム才」を「一ム」と改めるまた、1980年には作品に記す号に「野陶」「ヤト」を使い、。1981年の作品に記す号に「陶玄」を使い、後に「玄」を使用しております。

清水 卯一

清水卯一は1926年生まれの、京都出身の陶芸家です。

鉄釉陶器の人間国宝として京焼を中心に、花瓶・茶道具を中心に様々な陶器陶芸作品を制作しました。
数か月の間でしたが人間国宝・石黒宗麿に師事し、その後日展・日本伝統工芸展を中心に活躍します。
1992年には、滋賀県に蓬莱窯を築きました。滋賀県湖西・湖北の土を使用して、貫入のある青磁・油彩天目などを制作しました。晩年には研究を重ね、鉄釉と白釉を合わせた鉄耀白流などの新しい技法を次々に生み出していきました。

晩年には半世紀の間に自身が作陶した150点の作品を滋賀県の美術館へ寄与します。また、若手陶芸家の為に自身の蓬莱窯を開放。自身の作陶活動と並行して、後進の育成・陶芸文化の伝承にも力をいれていました。

2004年に77歳で亡くなりましたが、現在も蓬莱窯では息子・清水保孝、孫・清水志郎も共に京焼の陶芸作家として、「鉄彩陶器」の伝統を受け継ぎながら活躍しております。

五十嵐 新平

五十嵐新平は、古曾部(こそべ)焼の祖になります。

寛政年間(1789~1801年)に摂津国島上郡古曾部村(大阪府高槻市古曾部町)に陶窯を築き、京風の焼き物を焼き始めました。

二代 新平は、別名を『一単斎信楽』と称し、国焼・南蛮・高麗などの写しを焼きました。

三代・四代は『信平』を称し、三島・絵高麗などの写し物・急須・盃・菓子皿・茶碗・火入・水注・花入などを製作しました。

またくらわんか茶碗や海老絵小皿なども焼きました。

五代の五十嵐新平まで続きましたが、明治末年に廃業となりました。

古曾部焼は、『遠州好み』を製作したとされる、遠州七窯のひとつに数えられています。

近年復興されています。

代々いずれも様々な『古曾部』の印を使用しています。

永楽 善五郎

永楽善五郎は千家十職の一つである土風炉・焼物師であり、代々土風炉や茶碗を制作している京焼の家元です。当代は十七代目となります。

千家十職とは、千家の流れを汲む茶の湯の道具を代々に渡って制作する人たちのことを呼び、この「千家十職」という呼び名は、大正時代に、茶道界の復興と飛躍的に茶道具制作の需要が増えた時に、百貨店での展覧会の呼称としてはじめて用いられ、今日まで広く知れ渡ったものです。

永楽家はもともと、初代の宗禅から十一代保全までは西村家を名乗っておりました。初代宗禅は室町時代、奈良県の春日大社で日曜雑貨等を作っておりましたが、晩年に武野紹鴎からの依頼で土風炉を制作するようになったことで土風炉師「善五郎」を名乗るようになります。

九代目までは土風炉の制作をしておりましたが、十代了全は天明の大火により全焼した西村家の工房を整備したり、多彩な作品を作ったことで焼物師と認められたりする等の功績を残します。
十一代の保全は永楽の家祖となり、京焼の技術を習得したのち、紀州徳川家から御庭焼窯に招かれ作品を献上すると、その高い技術力が十代藩主であった徳川治宝に認められます。永楽の銀印と河濱支流の金印を褒美としてもらい、江戸から明治に時代が変わっていく際に、正式に姓を変えて永楽保全が誕生することになりました。

以降、現代の十七代まで代々永楽の名を受け継いでおり、その作風は交趾(こうち)、金襴手(きんらんで)、仁清写(にんせいうつし)などの華やかな趣向でありながら、「お茶にかなった」美しい器として人気が高いものとなっております。

猪飼 祐一

猪飼 祐一は、京都府出身の陶芸家です。

京都五条坂にある壺屋喜兵衛(つぼやきへい)という江戸時代末期から続く陶器商の家に6代目として生まれ、幼い頃から陶器に親しみ育ちました。

初代は焼物の職人として活躍していました。

2代目からは焼物を売る商い専門に変わり、猪飼祐一の父親の代まで続きます。

父親が店を切盛りしていた頃は、『いずれは商売を継ぐのだろう』と軽い気持ちでしか考えていませんでしたが、次第に陶芸に惹かれていき、商売人兼陶芸家として芸術肌の陶芸家とは一風変わった目線の作品を手掛けるようになりました。

猪飼祐一が手掛ける作品は使い手の事を第一に考えた作品が多く、制作に入る段階で使ってくれる人の事を考える事から始まります。

そんな猪飼祐一ですが、人間国宝『鉄釉陶器』の保持者に認定された清水卯一の指導を受けており、その息子である清水保孝にも師事しています。

土のぬくもりを感じさせる灰釉作品を始め、重ね合せたような貫入と淡青の釉調に特色を持つ青磁作品を中心としてオリジナリティ溢れる作品を追求し、壺、花器、茶碗、皿などを制作しています。

日本伝統工芸展で活躍しており、数々の賞を受賞するなど輝かしい実績を持ち、味わいのある上品さと思わず手に取りたくなる肌合いを有した器で今後も非常に楽しみな作家として注目を浴びています。

鈴木 五郎

愛知県豊田市出身、日本の陶芸家です。
若くして陶芸の世界へ入り、尾張地方の伝統陶芸である織部・瀬戸の作品に自身のオリジナリティを加えた唯一無二の作品を作陶しています。

志野・織部・瀬戸の伝統作品の魅力は勿論なのですが、私が感銘を受けたのは「ロスオリベ」シリーズです。アメリカのポップアートに触発されて作陶されたといわれていて、ドット模様や静物画はロサンゼルスの壁画に描いてありそうなユニークな絵付けが、ロサンゼルスの土を使った織部陶器に絵付けされている。和と洋の融合を聞いただけではミスマッチのように感じますが、実物をみると真新しさと美しさに魅了されます。
私もいつかロスオリベシリーズのぐい吞みで、日本酒を飲んでみたいと考えています。

茶道具や酒器類以外にも、陶器人形や陶器椅子などのアート作品も数多くあります。
現在も、全国各地で個展を開催していますのでお近くで開催の際には足を運んでみてはいかがでしょうか。

緑和堂では随時買取強化中です。思い入れの強いスタッフがおりますので、納得の鑑定・査定額をご提案させていただきます。

上田 直方

上田直方は、信楽焼の伝統を代々受け継ぎ、現在も守り続けています。 現在は六代目が当代として精力的に作陶活動を行っています。 信楽焼の歴史は古く、1300年以上の歴史があると言われ、茶陶は室町時代から始まったとされています …

加藤 孝俊

「孤高の天才」「油滴天目の第一人者」と呼ばれた加藤孝俊さん。 代々染付磁器を製作する窯元「真玉園」の嫡男として生まれます。 家業の「真玉園」を継ぎながらも、48歳の時に、「中国宋時代の陶磁を再現」という夢を果たすため、長 …

加守田 章二

その生涯で何度も作風を変えた陶芸家、加守田章二。荒々しい見た目の裏で、計算しつくされた緻密な造形は、究極の現代陶芸の姿を映しています。 加守田は1933年に大阪府岸和田市に生まれました。少年時代はよく絵を描き、公募展での …

北大路 魯山人

北大路魯山人(本名・房次郎)は波乱万丈の人生と、その多才な才能を生かした作品が知られる人物です。作品は篆刻や陶芸、絵、書、漆芸など多岐に渡る他、美食家としても有名です。 魯山人は1883年に京都に生まれますが、生まれる前 …

黒木 国昭

黒木国昭は宮崎のガラス工芸家です。 西洋のガラスの中に日本の美を組み入れた色鮮やかな作品は、見る者を虜にします。 黒木は1945年に九州・宮崎で生まれ、高校卒業後はガラス製造会社に勤務していました。1974年に独自のガラ …

八木 一夫

八木一夫は、陶芸の世界に新しい造形を呈した陶芸家として有名です。 京都府の八木一艸の長男として生まれた八木一夫は京都美術工芸学校の彫刻科を卒業後に商工省陶磁器試験所の伝習生になり、沼田一雅の日本陶彫協会に入会し陶彫を学び …

鈴木 蔵

鈴木藏(蔵)は志野の人間国宝に認定されている陶芸家です。 1934年、岐阜県土岐市に生まれ、父は製陶会社の研究員でした。幼い頃より父から作陶の基本を学んだ他、陶芸家・荒川豊蔵や加藤土師萌に学び、桃山時代より続く志野の研究 …

石黒 宗麿

石黒宗麿は昭和30年に重要無形文化財保持者(人間国宝)制度が生まれた時に富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵といった人物とともに初めて陶芸界から受賞した富山県出身の陶芸家です。 県立富山中学の中退など様々な経験を経て、中越汽船会 …

中島 宏

中島宏は青磁で国の重要無形文化財に認定された佐賀県出身の陶芸家です。 1941年に磁器を焼く窯元に生まれた中島宏は、若いころは今でいう3Kの仕事であった家業を好きになれずにいました。そんな中島宏の転機となったのは、父親に …

薩摩ガラス工芸

薩摩ガラス工芸は、鹿児島県で薩摩切子を製造しているメーカーです。 薩摩切子は、二十八代島津斉彬の命によって鹿児島で生み出されましたが、斉彬の急逝や薩英戦争や西南戦争があったことが影響してわずか20年あまりで姿を消し、幻の …

金重 晃介

金重晃介は、言わずも知れた人間国宝である金重陶陽を父に持つ現代の備前焼を代表する作家の一人として有名です。 東京芸術大学の美術学部で彫刻を学んだ後に、関東にて前衛グループ展に参加したり、東海大学の教養学部にて6年間陶芸の …

濱田庄司 「柿釉青差扁壷」

濱田(浜田) 庄司

濱田庄司は益子焼の陶芸家として、現在でも非常に高い人気を誇っている人物です。単純ながらバランスのよい造形と、そこに描き出されるシンプルな釉の文様がよく調和していて、素朴ながら味わい深い作品となっています。 濱田は1894 …

沈壽官

沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉の2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主であった島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元となります。 薩摩焼は黒もん …

エミール・ガレ

エミール・ガレは、父シャルル・ガレと母ファニー・レーヌメールとの間に1846年フランス北東部のナンシーで生まれます。 両親は陶磁器とガラス器を扱う店舗をナンシーに構えていました。 1858年から1864年までナンシー帝国 …

加藤孝造

加藤孝造は岐阜県出身の陶芸家です。 可児市に窯を開き独立しますが、それまでは、同じく岐阜の陶芸家である5代目加藤幸兵衛に陶芸の指導を受けました。 若いころには絵画にも携わっており、日展の洋画部門ではその回の最年少受入選に …

瀧田 項一

瀧田項一は日本を代表する陶芸家です。 東京美術学校では、人間国宝・富本憲吉に学び、濱田庄司工房へ入門。益子焼の人間国宝・浜田庄司に師事しました。 陶芸家としての顔は勿論ですが、研究家としも有名で、中国やドイツ、トルコなど …

谷本 光生

谷本光生は洋画の作家から陶芸家へ転身し、地域文化功労者に表彰された伊賀焼の陶芸家です。 伊賀焼は、400万年ほど前に伊賀地区がまだ琵琶湖の一部にあった際のプランクトンが堆積してできた土を使用しており、17世紀初めの伊賀焼 …

好本 宗峯

好本宗峯は備前焼で唯一須恵器を制作している人物です。 須恵器とは、古墳時代中頃から奈良・平安時代以後まで作られていた灰色の土器であり、祝部土器とも呼ばれ吸水性が少なく、硬質であることが特徴です。 朝鮮の新羅土器の流れを汲 …

金城 次郎

金城次郎は沖縄県で初めて国の重要無形文化財「琉球陶器」保持者(人間国宝)に認定された陶芸家です。 大正元(1912)年に沖縄県に生まれ、大正13(1924)年に壺屋の名工である新垣栄徳に従事し、昭和21(1946)年に独 …