木村玉舟は岡山県出身の陶芸家です。幻の備前焼と呼ばれる白備前を長きに渡り研究されております。毎年干支の置物の制作に取り組まれており、中でも鉄分の少ない土を焼しめることにより作り出される白備前の作品は多くの方から支持されております。
1953年木村玉舟は名細工師十六代木村宗得の長男として岡山県に生まれます。1976年に名古屋芸術大学彫刻科を卒業しました。1978年に日本最大の総合美術展覧会である第10回日展にて入選をしました。また同年に岡山県展津山市長賞を受賞しました。翌年には功績が認められて日展会友となります。1995年には幻の備前焼と呼ばれる白備前が完成し、同年に信楽陶芸展にて入選しました。2003年から約3年間岡山県展審査員となり、6年後には日本陶彫会副会長に就任しました。
2022年に制作した池田動物園のベンガルトラをモデルにした作品はニュースでも取り上げられました。こちらの作品は白備前の元祖ともいわれる閑谷焼であり、木村さんが5年もの時間をかけて初めて発表をされた物でございます。今後も工夫や研究を続け、素晴らしいご活躍をされることでしょう
加藤春岱(かとう しゅんたい)は幕末、瀬戸赤津村の陶工です。
1802年瀬戸の窯屋に生まれ、名を宗四郎と言います。
早くから才能を開花させ、15歳にして父・景典(春山)の跡をつぎ、御窯屋に列しています。
御窯屋(おかまや)とは、初代尾張藩主・徳川義直が行った瀬戸の復興政策の一種です。
現在でも陶器のことを「瀬戸物」と呼ぶくらいに瀬戸は焼き物が盛んですが、この時代、桃山期に陶工が美濃へと移った影響で、その力は衰えていました。そこで瀬戸の窯業を再び盛んなものにするべく、陶工(唐三郎・仁兵衛)を呼び出します(後に、太兵衛家もここに加わります)。苗字帯刀を許可、藩から扶持を支給し、瀬戸における陶磁器の生産と、また名古屋城内でのお庭焼(御深井焼)の指導を命じたことに始まる、由緒ある窯元の家です。
1838年に罪を犯して御窯屋職を退職。名古屋市昭和区の川名町で制作をすることになりました。この頃の作品が多く銘印が押され後世に残されたとみられています。
坂倉新兵衛は山口県長門市深川にある萩焼の窯元です。萩焼は慶長(1592年~1598年)の折、毛利輝元公が朝鮮李朝の陶工、李勺光、李敬を日本に招いたことによって始まったと言われております。
半世紀後に、李勺光の子である山村新兵衛光政の高弟、赤川助左衛門、助右衛門、蔵﨑五郎左衛門の一統らが、深川三之瀬の地に移り窯を築き上げました。その後に山村新兵衛光政の子である山村平八郎俊も移住し、潘の御用窯として「三之瀬焼物所」が創業されました。これが萩焼深川窯の始まりだと言われております。
当代である十五代・坂倉新兵衛は1974年に作陶の世界に入りました。東京芸術大学を卒業後に同大学院にて陶芸専攻を修了致しました。その後、藤本能動や田村耕一に師事し修行しました。
1987年に十五代坂倉新兵衛を襲名いたしました。その後自己表現の方法として「象嵌」という技法を取り入れ、萩の土味を生かした温かみのある作品を作り続けております。
2013年には県の無形指定文化財に指定されております。
申 正熙(シンジョンヒ)は、韓国で最初に高麗茶碗を再現した陶芸家です。
高麗陶器は当時、世界最高水準にあり、その素朴で温かみのある作品は多くの韓国人に愛され、日本でも茶人からその雅趣が高く評価され、国宝的な存在として数々の名品が珍重されております。
申 正熙は,1930年に韓国慶南泗川に生まれます。
1954年に韓国内に残る二百余の古窯を訪ね歩き、窯の構造を調べ、埋もれた陶片を掘り出して当時の陶土や釉薬を研究しました。
彼の作品は、井戸、三島、鉄絵、辰砂など幅広く、いずれも500年の時を超えて、当時の光彩を放っています。
韓国政府は彼を韓国陶芸界を代表する陶芸家と位置付け、その作品を同国を訪れる各国元首や、ローマ法王に記念品として贈り、釜山・金海空港の貴賓室五室に飾ることにしています。
月形 那比古は鬼志野創始者であり、「炎の陶工」と謳われた日本の陶芸家です。
1923年、新潟県糸魚川市に専業農家の5人兄弟姉妹の三男として生まれます。
父は石刻匠で母は華道家という家庭環境でしたが、5歳の時に不慮の事故で父が急逝し、母子家庭で育てられます。家計が苦しかったので、旧制中学時代に国鉄糸魚川駅で実家で採れた野菜を戸板に乗せて販売し、家計を支えました。
新潟県立長岡工業学校へ入学し在学中に荒川豊蔵に運命的な出会いをした月形那比古はのちに、荒川豊蔵の創作精神と美学に傾倒していきます。
新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年に学徒出陣、第二次世界大戦へ参戦しました。戦後、復学し日本大学芸術学部を卒業します。
美濃の岐阜県に住居兼作業場を構え,1955年頃に独自の研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見探求、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する「鬼志野」を発表し、昭和陶芸界に衝撃を与えました。
1964年当時、陶芸作家という言葉は一般的認知度は低く、当然陶芸並びに創作活動だけでは食べていくことは出来にくい状況でした。
その頃、日本における現代舞踊の第一人者として有名だった石井漠の一番弟子の石井みどり芸術バレー団の舞台監督を任されることになり、創作活動の一環として、舞台監督を約5年ほど挑戦します。挑戦するも食い足りなく、求めている心境も満たされないと感じるようになります。
自分を見つめ直し模索していた月形那比古は第二次世界大戦での悲惨な体験を元に、彼らのためにも自分は出家し、尺八を法器として一千日の托鉢修行を行います。托鉢修行から受けた禅の精神を反映させた作品も多くそれらは「禅の陶芸」「禅陶」とも言われました。
月形那比古は陶芸の他にモダンバレーの舞台監督、絵画、映画、写真、建築、篆刻、書、彫刻などジャンルを超えた多彩な才能を発揮しました。
また、1970年代以降には鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野が紹介され、海外の陶芸家などにも大きな影響を与えました。
佐賀県東松浦郡有浦村で生まれ、貧しい家庭で育った中川憲一は、絵を描くことが好きでハングリー精神を持った男でした。
高校卒業後に勤めた製薬会社を辞め、陶芸家になってサラリーマンより稼いで先生と呼ばれ尊敬される人になる、と意気込み脱サラして唐津焼の窯元で修業に入りました。3年半の修業にて独立し、市販の粘土を用いギフト用など個性のない作品を作っていましたが、現代作品に魅了され教えを請い、焼成方法の極意を教わります。
それからは名を中川自然坊とし、赤土と棕櫚と呼ばれるヤシ科の植物の繊維を使った刷毛を使用し、濃い化粧土を塗り高温で焼き上げる自然坊ならではの個性ある作品を作り上げるようになりました。
この頃から陶芸家としての評価ももらうようになり、黒田陶苑の黒田社長に見いだされ、黒田陶苑での初の個展を開催します。ここからさらに勢いづき、朝鮮唐津に挑戦し作品を完成、弟子を取り自分の技術を伝えるなど、積極的に陶芸と向き合っていった。自然坊は年に6回の窯焚きを1人で行っていたが、弟子を持つようになってからは年30回の窯焚きを行うようになっていきました。
そんな自然坊も2010年には病を患い、息子の恭平を説得し窯に戻し息子と二人で作陶を行うようになりました。病を患っても作陶の意欲は変わらず、酸素吸入をしながらの作陶や、亡くなるひと月前に新しいシステムの窯を作ると決意し着工するなど、亡くなる寸前まで作陶に命を懸けていた熱い陶芸家でした。