北出塔次郎は、1898年兵庫県に生まれました。
今でこそ九谷焼の巨匠と名高い北出塔次郎ですが、はじめは大阪美術学校日本画科で矢野橋村(1890-1965)から文人画を学んでいました。1921年、23歳の時に九谷焼の北出家に婿養子に入り、板谷波山(1872-1963)に師事。陶芸家の道へと入りました。
1932年に行われた第13回帝展で入選後、多くの展覧会で入選し、1939年の文展、1946年の日展では特賞を受賞しています。
1936年には色絵研究に九谷を訪れた富本健吉に色絵を教え、その一方で自身も富本に師事し、お互いに影響を与えました。
この際、富本健吉によってもともと北出窯という名だった窯に『青泉窯』という新しい名が与えられ、その後甥であり後継者である北出不二雄に受け継がれていきます。
作陶に転じる以前は文人画を学んでいたこともあり、雉やラクダなどの動物を大きくメインモチーフに据えた作品など、九谷焼の伝統的意匠は残しつつ新鮮かつ独自の作風を確立しました。
熊野九郎右衛門は、福井県鯖江市出身の陶芸家です。
1955年に生まれ、現在まで数多くの優れた作品を残されています。
地元北陸で活動する一方、ドイツやサハリンへの招待をはじめとして海外でも積極的に講演などを行い、近年では全国的に個展が開かれております。
焼き物と化け物の境界を探求する。これが、熊野九郎右衛門の作品制作における命題です。その命題の意味するところは、彼の作品を見ればすぐに伝わるでしょう。
主に越前の土を用いて作られる茶器や酒器は、野性的で力強い造形を持ちます。焼き物でありながら、生命力に溢れたその作風からは、他では見られない迫力が感じられるでしょう。
溶破寸前の「ドロドロ」とした美をテーマとし、土の臨界点までの焼成が作品に自然味をもたらします。異様なようで純粋な、不思議な美しさを感じさせる一方で、決してオブジェ的ではなく器としての機能性も意識された焼き物として、陶芸家・熊野九郎右衛門は表現を行っております。
横浜焼は、広義には横浜港付近で作られた工芸作品の事を指します。
もともとは焼物の産地ではなかった横浜ですが、1859年の日米修好通商条約などを機に生糸や工芸品の輸出入が盛んになったことで全国から陶工が集まり、各々が制作を始めました。
全国から集まった陶工が自由に作っていた為「これが横浜焼だ」という特徴はないものの、ヨーロッパ等の技法を取り入れたり海外向けに作られているものが多く、和と洋を組み合わせたようなもので近代的な絵柄の物や作品が多いです。
京都から移り窯を開いた宮川香山(真葛香山)の真葛焼は、その最たる物と言えるでしょう。香山の作品が海外でいくつもの賞を受賞し、脚光を浴びたことで、横浜に全国の陶工が集まるようになったとされています。
海外人気により栄えた横浜焼ですが、戦争による被害の為にその歴史は途絶えてしまいます。同時に輸出産業として陶工が集まっていたこともあり、霧散した後は横浜焼が知られる機会も減ってしまいました。
横浜で焼き物が作られていたことをご存じでなかった方も多いかと思います。これを機に興味をお持ちいただけましたら幸いです。
ゲルト・クナッパ―(Gerd Knäpper)は1943年、ドイツ西部の工業都市であるヴッパータール(Wuppertal)に生まれました。
一度は塗装工として就職しましたが、芸術の道を諦めきれず修行のため欧州諸国、インドなど各地を回ったのち渡米しました。ニューヨークで彫刻家のアシスタントとして働きながらメトロポリタン美術館等に度々足を運び、そこで日本の茶道と出会いました。
1967年、陶芸家の加藤唐九郎に会うため初来日し、濱田庄司を益子に尋ねました。その後ドイツへいったん帰国し、1年半の陶芸修行ののちイギリスの陶芸家であるバーナード・リーチの元へ訪れ、そこで益子焼の陶芸家でのちに人間国宝に指定される島岡達三を紹介されました。
その後栃木県益子市に移住、塚本製陶所で修業したのちの1969年、26歳の時に外国人としては初めて、益子で窯を開きました。
窯を開いて約2年の1971年、第一回毎日新聞社日本陶芸展にて文部大臣賞を受賞し、日本でその名が知られるようになりました。
茨城県久慈郡大子町の自ら修復して住まいとしていた茅葺屋根の屋敷の一部を改装し、2007年にクナッパ―ギャラリーとしてオープンしました。
波紋や渦、貝を思わせる造形や独特の幾何学模様が特徴的で、モチーフの多くは自身が旅をした国々・日本でみた風景が元となっています。
「ドイツの作家とも、日本の作家とも思わないが、日本人以上に日本が好き」としており、自身の作品の模様には縄文文化の影響も大きく関係していると残しています。
和太守卑良(わだ もりひろ)は1944年、兵庫県西宮市に生まれました。
1967年、京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)工芸科陶磁器専攻を卒業後、高知県安芸市で古窯の復興に尽力しました。その後茨城県笠間市に移住し開窯します。
1980年にはイタリア・ファエンツァで1938年より毎年開催されているファエンツァ国際陶芸展で金賞を受賞し、1990年にはニューヨークで個展を開催するなど、その人気は日本だけにとどまりません。
1987年には第9回日本陶芸展で優秀作品賞・日本陶芸展賞に加えて日本陶磁協会賞も受賞するなど、日本国内でも多くの賞を受賞しています。
1983年には、重要無形文化財保持者を中心として組織され、無形文化財の保護・育成を図ることを目的として設立された「日本工芸会」の正会員となりました。
ろくろを使わず手びねりで成形する作風が特徴的です。代表的な作品として肌色の素地に黄色やオレンジ、緑の釉薬で文様付けをした「吉花文」、オレンジ、黒、白などで構成された独自の幾何学文様である「其風文」などがあります。
手びねりによる造形と幾何学文様による絵付けは独創的かつモダンな雰囲気を醸し出しており、現在でも人気の高い作家のひとりとなっています。
珉平焼は、淡路の陶芸家であった賀集珉平の興した窯です。
窯の所在地にちなみ、淡路焼とも呼ばれています。
賀集珉平は1796年、淡路国に生まれました。
京都の名工と名高い初代尾形周平に師事し、文政(1818~1830)年間に出生地である淡路島伊賀野村(現 南あわじ市北阿万伊賀野)に開窯しました。
黄釉や青色釉の作品を主に製造していましたが、後に師である尾形周平を淡路に招き、釉薬調合について指導を受け白磁なども製造しました。
1842年には淡路島を治めていた阿波徳島藩第12代藩主・蜂須賀斉昌により珉平焼は阿波潘の藩窯となりました。御用御陶師と称することを許されたり、賀集珉平本人が江戸に出仕するなど大きく発展しました。
賀集珉平の没後一度は衰退しますが、1880年代に入り淡陶社として復活、食器や花器などの製造を開始しました。その後はダントーホールディングス株式会社に名を変え、タイル製造を主な事業として現在まで続いています。
当時の窯や作業場は近年になって発掘調査が行われ、文献にしか見ることのなかったコーカシ窯と呼ばれる薪を乾燥させるための窯の実物が発見されるなど、遺構としても貴重となっています。