初代徳田八十吉(鬼仏)は、四代続く九谷焼の名跡「徳田八十吉」の初代にあたる作家です。
古九谷・吉田屋の再現に生涯を賭け、九谷焼最高峰の作家として評価されています。指導者としても、浅蔵五十吉や二代八十吉、三代八十吉を育成するなど近代の九谷焼に強く影響を及ぼしている人物です。
1873年の石川県能美郡に生まれ、はじめは日本画家を志して荒木探令に師事しました。しかし次第に古九谷、さらに言えば吉田屋窯の青手に惹かれるようになり、義兄・山本佐平の教えもあり、陶芸の道に進むこととなりました。やがて独立し、自身も吉田屋窯の再現や九谷五彩などの研究を行うようになります。
釉薬の改良を行う中では、「深厚口釉」という独自の彩釉も発明しました。古九谷の美しさに八十吉独特の感性をもちいた作品群が評価され、1953年には上絵付(九谷)で国の無形文化財に認定されております。
初代から四代含め、九谷焼の代表的な作家である徳田八十吉の作品は、現在でも見られる機会が多くございます。
由水常雄は、日本のガラス工芸家です。
早稲田大学大学院博士課程を修了後、政府招聘留学生としてチェコ(旧チェコスロバキア)のカレル大学にてガラス工芸史、東西美術交渉史を専攻します。日本に戻ってからは早稲田大学や多摩美術大学で教鞭を取ります。そののち、ガラス作家養成校・東京ガラス工芸研究所や、能登島ガラス工房などを開設しました。東京ガラス工芸研究所は日本で最初のガラス専門の教育機関であり、数多くのプロを輩出しています。
由水はガラス工芸家としても、考古学研究者としても高い評価を得ています。
そのきっかけとなったのが、正倉院のガラス器の調査です。正倉院に納められている貴重な宝物にはガラス作品が存在しており、その調査を由水が行いました。調査の際にはアジアのみではなくユーラシア大陸全域のガラスの出土状況まで調べるほどでした。その調査において6点のガラス作品を復元することに成功した由水は、その6点を「正倉院ガラス宝物コレクション」として発表しました。
これらの功績をあげた由水は、海外で消滅したガラス技法の復元に着手し成功させています。「パート・ド・ヴェール」や、「ミルフィオリ」といった技法は自身の創作活動でも使用しており、ガラス工芸家としての活動においても高い実績を重ねています。
島田文雄は1948年、栃木県に生まれました。
兄に日本画家の松本哲男がおり、兄が絵を描くのを見て育ったために芸術家を志すようになりました。
東京芸術大学大学院時代に見た宋代の青白磁に強く惹かれ、以降青白磁の製作に取り組んでいくこととなります。
青白磁は別名影青(いんちん)とも言い、薄く青みを帯びた釉薬が素地の片彫りされた部分に溜まることによって模様として発色します。
その青白磁の中に他の色を入れたらより一層美しくなると考えていた島田は、板谷波山の彩磁を見てその技法を取り入れるべく研究を始めます。波山は釉薬の下に絵付けを行っており、その絵付けには水溶性の絵具を使っていました。長らく不明だった波山のやわらかな色合いの絵具の調合をわずかな情報から再現し、「青白彩磁」を製作しました。
近年では上絵付の技法を取り入れるなど、釉薬や絵具の研究には余念がありません。
透けるようにやわらかくも鮮やかなその色味は、島田が歳月をかけて研究・調合した絵具だからこそ出せるものと言えます。
益田芳徳は1934年、東京に生まれました。
中学生のころ、教員であった利根山光人に絵画を学び、画家を志すようになりました。
1954年、20歳のころに上越クリスタル硝子株式会社(2023年10月廃業)よりガラス作品の制作を始めました。はじめ、ガラス作品の制作は数ある創作表現の一つでしたが、1964年頃よりガラス作品の制作を主な活動としていきます。
1970年には走泥社に初めてガラス作家として名を連ねました。
走泥社は八木一夫、鈴木治らによって1948年に設立された陶芸家のグループで、器としての実用性を伴わなず、純粋な芸術作品として作られたオブジェ焼きと呼ばれるジャンルを確立しました。
画家、彫刻家など様々な分野の芸術家と交流した益田芳徳の作品もその例に漏れず、抽象的かつ芸術性に富んでいます。
1980年には日本クラフトデザイン展にて優秀賞、1983年には朝日元代クラフト展にて審査員奨励賞のほか、多くの展覧会などで受賞しています。
加藤春鼎(かとうしゅんてい)は、三代に渡って続く瀬戸焼の家元です。
歌舞伎などと同じく、いわゆる襲名制の窯であり、歴代の当主が代々「加藤春鼎」を名乗る事となっています。
瀬戸焼で有名な愛知県瀬戸市に工房を構え、制作を行ってきました。代々特徴は変わっていきますが、極まった瀬戸固有の陶技は三代を貫いて受け継がれております。
当代である三代目は「引出し黒」という技法を得意としており、特に20代はその研究に没頭していました。引出し黒は、鉄釉をかけた作品を焼いている途中に窯から引き出し、急速に冷やすことによってより深い黒色を作成する技法です。出来上がる作品は深い黒色に輝く仕上がりになり、お茶をいれると緑色がより映えるようになります。
三代に渡って愛される加藤春鼎は日本のみならず海外でも人気の高い作品がございます。特に三代目はフランスやイギリスでも個展を開いたり、フランス西部の町で行われるシンポジウムにも招かれたりしています。
大樋年朗(本名:奈良年郎)は、代々大樋焼を継承する本家「大樋長左衛門」の十代目となる人物です。
大樋焼は金沢にある、楽焼を源流とした陶芸窯、およびその流派です。
年朗は1927年に九代大樋長左衛門の長男として生まれ、早くから陶芸家としての道を進み始めました。
東京芸術学校(現・東京藝術大学)の工芸科を卒業すると、翌年には日展で初入選。その後も日展を中心に幾度も受賞するなど、活躍されました。1967年には、史上最年少となる39歳で日展の審査員も務めました。
1987年に十代大樋長左衛門を襲名し、2016年に長男に名跡を譲るまで長左衛門として活動しました。
「年朗」という名前は、大樋長左衛門の型にとらわれず作品を発表する際に使用される名です。飴色の釉薬を使うことで出る艶のある独特な輝きが大樋焼の魅力であります。その伝統性を取り入れながらもオリジナリティのある造形を持った作品や、はたまた全く異なる技法を用いた制作など、その作品からはいわば陶芸の世界への深い愛が感じられます。