杉浦康益は1949年、東京都に生まれました。
東京芸術大学大学院を卒業後、1979年に初の個展を開催、「やきものは石である」という恩師の言葉にインスピレーションを受けて制作した『陶による石の群』を発表し、注目を集めました。
その後、石から岩へとモチーフを広げ、『陶の岩』シリーズや、2000を超える陶器を積み上げて制作した『陶の木立』など、大型の作品を多く手掛けています。
無所属で作陶を続け、1984年に神奈川県真鶴に居とアトリエを置き、2000年からは自宅付近の植物をつぶさに観察し、陶器で緻密に作り上げた『陶の博物誌』シリーズも展開しています。
特に「花」をモチーフとした作品は、花弁の細かな動き、めしべやおしべの一つ一つに至るまで精緻に作られており、氏の作品の中でも人気が高くなっています。
全国各地で個展を開催しているほか、2012年には日本陶磁協会賞を受賞しています。
古田織部は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、著名な茶人でもあります。
彼の本名は古田重然(しげなり)で、美濃国(現在の岐阜県)の出身です。彼は初め織田信長に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となり、茶の湯(茶道)においても重要な役割を果たしました。
武将としての経歴
古田織部は、17歳で織田信長に仕官し、桶狭間の戦いや信長の上洛戦などで功績を上げました。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、九州征伐や小田原征伐などに参加し、その武功により豊臣秀吉から「織部」の官職名を授けられました 。これにより、古田織部として広く知られるようになりました。彼の軍事的才能は高く評価され、多くの戦役で重要な役割を果たしました。
茶人としての活躍
古田織部は、茶の湯の世界でも大きな影響を与えました。千利休の弟子として学び、「利休七哲」の一人に数えられています。利休の教えを受けながらも、織部は独自の美意識を持ち、従来の茶の湯とは異なる革新的なスタイルを確立しました。彼のスタイルは「織部好み」と呼ばれ、これは大胆で独特な形状とデザインを特徴としています 。
織部焼

古田織部が考案した「織部焼」は、その独特の美しさと創造性で知られています。織部焼は、透明釉薬に酸化銅などを加えて酸化焼成したもので、緑色の釉薬が特徴です。この釉薬により、織部焼は独自の風合いを持つ陶器となりました。また、織部焼の形状は従来の茶器とは異なり、歪んだ形や大胆な幾何学模様が特徴で、これは織部の独特な美意識を反映しています 。さらに、織部は多くの茶器や食器に新しいデザインを取り入れ、茶道具の世界に革新をもたらしました。
古田織部の美意識と創造性は、彼の師である千利休の影響を受けながらも、独自の道を切り開きました。千利休の茶の湯が静謐でシンプルな美を追求したのに対し、織部は大胆で動的な美を追求しました。これは彼の個性と創造力を反映しており、多くの弟子や後世の茶人に影響を与えました。織部の茶の湯は、形式にとらわれない自由な発想と、個々の器の美を引き立てることを重視しました 。このため、彼の茶会は常に新鮮で独創的なものであり、多くの茶人や文化人に愛されました。
織部焼の代表的な作品
当時の織部焼の作品は、現在でも多くの美術館やコレクションに収蔵されており、その美しさと独創性は高く評価されています。例えば、「織部筒茶碗 銘 冬枯」や「織部松皮菱形手鉢」、「織部四方手鉢」などの作品は、いずれも重要文化財として指定されており、茶道具の世界においてその価値が認められています。また、古田織部が手掛けた茶室や庭園も、織部好みの美意識を反映しており、訪れる人々に感動を与え続けています 。
最後と影響
古田織部の最期は波乱に満ちたものでした。徳川家康の息子である秀忠に仕えた後、豊臣方との内通を疑われ、慶長20年(1615年)に切腹を命じられました。しかし、その死後も彼の美意識と茶道への影響は長く続きました。織部の茶の湯のスタイルは、後世の多くの茶人に受け継がれ、現在でも「へうげもの」として親しまれています 。
古田織部は、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の茶道に大きな影響を与えた人物であり、その革新性と美意識は、現代でも高く評価されています。彼の作品や茶会のスタイルは、多くの人々に愛され続けており、茶道の世界において重要な位置を占めています。織部の革新性は、茶の湯の枠を超えて、陶芸や建築、庭園デザインなど、多岐にわたる分野でその影響を与えました。
古田織部の遺したものは、ただの茶器や茶会の形式だけではありません。彼の生き方そのものが、常に新しいものを追求し、伝統に挑戦し続ける姿勢を象徴しています。
寒川義崇は1951年和歌山県出身の陶芸家で、紀州焼葵窯の初代である寒川栖豊の四男として生まれました。大正時代の大阪府高槻市で四代続いていた「古曾部焼」が一時途絶えていたところ、縁があり継承しました。なんでもあるのが古曽部の特徴としており、高麗、安南、色絵付、交趾以外なんでも試したと語っています。また、当人も茶の湯を嗜みながら茶道具を制作しているようです。
作風は、「古曽部焼の匂い」を大切にしており、どの技法で焼いてもあまり澄ましていないホッとする匂い由来のイメージを重視しています。また、様々な技法を用いた作品が多くあるため、様々な表情を持つ古曽部焼が見られることも特徴と言えます。
見附正康は九谷焼の作家です。
1975年に石川県に生まれ、石川県九谷焼技術研修所在学中に九谷焼の名工・福島武山出会ったことで卒業後に師事します。その後は作品が認められない日々が続きますが、ある時オオタファインアーツの大田氏に注目されるようになったことでグループ展に出展するようになったり、経済産業大臣指定伝統工芸技士として認定されたりと活躍の幅を広げることになりました。
その後2007年に独立し、自宅に工房を構え作陶にはげみ、個展やアートイベントにも出展、第9回パラミタ陶芸大賞なども受賞しております。
作風としては人物や花鳥などの伝統的な九谷焼の赤絵の絵付のものありますが、緻密で繊細な線描で描かれた文様やパターンの絵付を得意としており、超絶的な技術が込められた作品には目を見張るものがあります。また、海外で見た建造物などからヒントを得ることもあり、伝統ある九谷焼の絵付と現代的なデザインが融合した新たなジャンルの作品であるとも言えます。
柳原睦夫は1934年に生まれた高知県の陶芸家です。
陶芸とは縁のない医師の家庭で生まれ育ち、デッサンを学ぶため京都市立芸術大学に進学しようとしましたが、縁故のある学長より同大学で陶磁器専攻の主任教授を務める富本憲吉に師事するよう勧められ、陶芸の道を歩むことになりました。現在は現代陶芸の第一人者として知られる陶芸家となっております。
1966年にワシントン大学に講師として招聘されました。念願だった渡米を果たしましたが、そこで全盛期のポップアートに揉まれ日米の陶芸を見つめなおすことになりました。1971年に器の各部分を別々に作成しつなぎ合わせる須恵器にヒントを見出し、ラスター釉使用による金銀彩シリーズを完成させました。二度目の渡米ではうつわの要素を取り除いた「空」シリーズを製作しました。三度目の渡米ではうつわを見つめなおし「筒花瓶」「踏花瓶」「笑口瓶」などのシリーズを制作されました。
1984年に大阪芸術大学教授就任し、現在では大阪芸術大学名誉教授として活躍されております。
安藤日出武は1938年岐阜県多治見市出身の陶芸家です。
多治見工業高校卒業後、窯元である父の手伝いを始め、皿や盃などの磁器を作りました。父は書や漢詩を嗜む文人のような人物で、それに興味を持った加藤唐九郎が訪ねてきたことにより人生が一変します。
日出武は唐九郎から「焼き物をやるなら、美濃で生まれた焼き物をやらないかんぞ」と言われ、美濃焼の道を志しました。それからは桃山陶と同じ土を求めて山の中を歩き回っていたようです。
1963年に朝日陶芸展に初入選して以降、数々の展覧会への入選や個展の開催など様々な活躍を見せました。1998年に多治見無形文化財保持者となり、2003年には岐阜県重要無形文化財保持者となりました。作陶には桃山陶にこだわる為、「穴窯式」を採用した仙太郎窯を築きました。
自然から得た素材を大切にしており、自身で土を探し、釉薬も自身で調合するというこだわりを持っています。