瀧田項一は日本を代表する陶芸家です。
東京美術学校では、人間国宝・富本憲吉に学び、濱田庄司工房へ入門。益子焼の人間国宝・浜田庄司に師事しました。
陶芸家としての顔は勿論ですが、研究家としも有名で、中国やドイツ、トルコなどを各地を美術調査渡航しました。また、沖縄県立芸術大学に10年間就任しています。
陶芸家としては、57歳の時に地元である栃木県須烏山市に「俱門窯」を築きます。
呉須赤絵作品が多く、草花や動植物の絵柄は気持ちを落ち着かせてくれるような和ませてくれる作品です。動物には躍動感をつけたり、草花は風に吹かれた描写をしていて、自然の美しさを感じる作品もございます。
赤絵と同じくらい白磁作品も多くあり、浜田庄司を彷彿しますが、持ち手や象嵌にはオリジナリティーを感じます。
長年の多くの功績が認められ、1998年には栃木県文化功労賞を受賞されました。
谷本光生は洋画の作家から陶芸家へ転身し、地域文化功労者に表彰された伊賀焼の陶芸家です。
伊賀焼は、400万年ほど前に伊賀地区がまだ琵琶湖の一部にあった際のプランクトンが堆積してできた土を使用しており、17世紀初めの伊賀焼である古伊賀は日本最高峰の陶磁器と言われ、器壁には、ヘラ工具を使用した波状の文様や格子状の押し型文様の他、ゆがみ、緑色のビードロ、灰かぶりや焦げ、鉄釉を垂らすといった技法が見られ人の手に施される性質の強い作品となっています。
大正3年に三重県に生まれた谷本光生は、当初は洋画家を目指し前衛的な絵画制作を行っていましたが、1946年に大阪の阪急百貨店にて開催された「古伊賀名品展」に感銘を受け、伊賀焼の陶芸作家になるとを決意し、工芸へ転向します。
その後は小森忍と日根野作三に師事し、1960年代に団体による展覧会発表に疑問を持つようになるまでは古伊賀の伝統を踏まえた現代陶器を制作していたが、個展に出品するようになってからは古伊賀をモチーフにした重厚なわび・さびを表した抽象的な表現になっていきました。
陶器以外にも書や絵画にも精通し、個展で発表し、現代伊賀の発展に寄与したとして1996年に文部大臣より地域文化功労者として表彰され、1997年には三重県教育文化賞などを受賞している。
好本宗峯は備前焼で唯一須恵器を制作している人物です。
須恵器とは、古墳時代中頃から奈良・平安時代以後まで作られていた灰色の土器であり、祝部土器とも呼ばれ吸水性が少なく、硬質であることが特徴です。
朝鮮の新羅土器の流れを汲むもので弥生土器や土師器とは異なる物で、奈良時代には備前でも焼かれていたものでした。
好本宗峯も、独立してから10年間は一般的な備前焼を焼いておりましたが、備前の須恵器は他の産地と比べると遥かに白くきめもある仕上がりであった為珍重されており、貢物として人気を博しており、好本宗峯もその美しさに魅了され須恵器の制作と再現を試みていきます。土は伊部の土を使いますが、鉄分の多い土は、備前焼に、白っぽく鉄分の少ない土を須恵器に使っています。制作は手回し轆轤を使う紐作り、蹴り轆轤を場合によっては使っています。
作品としては、須恵擂鉢、片口向付、備前須恵徳利、須恵ぐい呑、須恵水指などの作品があり、自然灰釉が厚く掛り、強還元焼成で透明感溢れる作品となっております。
平安時代に尾張の猿投窯で灰釉陶が大量に作られるようになったことで衰退していった須恵器を復元させるために、何度も試行錯誤を繰り返し、すばらしい須恵器を再現した陶芸家であり、息子である好本康人も備前焼の陶芸家として活躍されております。
金城次郎は沖縄県で初めて国の重要無形文化財「琉球陶器」保持者(人間国宝)に認定された陶芸家です。
大正元(1912)年に沖縄県に生まれ、大正13(1924)年に壺屋の名工である新垣栄徳に従事し、昭和21(1946)年に独立しました。濱田庄司や河合寛次郎に指導を受け、昭和32(1957)年には国展国画会賞を昭和42年には沖縄タイムス芸術選奨では大賞に輝きました。昭和47(1972)年には読谷村字座喜味に登窯を築き、同年には沖縄県無形文化財保持者に認定されました。昭和52(1977)年には現代の名工として表彰され、昭和60(1985)年には国の重要無形文化財「琉球陶器」保持者に認定されました。
作品としては、壺、食器、酒器等の普段使いの焼き物作りに主眼を置き、多彩な技法を用いた独特な作品を作っており、魚や海老をモチーフにした作品が多いです。線彫り技法から生まれる魚文や海老文は金城次郎の真骨頂ともいえ、笑う魚(笑っているように見える魚)等の魚文は金城次郎作品を代表する絵柄です。
一族には壺屋焼陶芸家が多く、また3人の子供も全て陶芸家であり、次郎の弟(敏雄)も含め金城一門と呼ばれております。
若尾利貞は現代の美濃(多治見)を代表する陶芸家の一人で、特に鼠志野の第一人者と言われています。
志野焼の一つに鼠志野があり、志野焼とは耐火温度が高く焼締まりが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけて焼かれ、優しい乳白色をしており釉薬のかかりが少ない縁などは赤みが見え、鼠志野は素地に鉄分の多い泥漿を施し、文様を箆で掘って志野釉をかけて焼くと、箆で落とした部分が白く残り、鉄の成分は窯の条件にて赤色や鼠色に変化します。
若尾利貞は鼠志野の従来のやり方を残したまま、今までにない技法が随所に表れており、一つの作品内に濃淡が何種類もある、素地の白と鼠色のみでなく赤色に発色させている部分がある、具体的文様が多く取り上げられていることが特徴的です。その独特の作品は美濃桃山陶の伝統を踏まえながらも、雅に富んだ煌びやかな印象を持つことができます。多くの陶芸家の心を掴むその作品は、個性は強いですが、主張しすぎず品の良いものとなっております。
江崎一生は、1918年に愛知県の常滑で生まれました。
この愛知県の「常滑」という地域はご存じの方も多いと思いますが、陶器の日本六古窯の一つになります。
千年という非常に長い歴史を持った焼き物の産地でしたが、この常滑は時間の経過と共に衰退をしていきました。
日本六古窯の一つでありながら一時期は、生活用品を焼くだけの釜場となってしまっていたのです。
そこに江崎一生が現れ、常滑の古陶の研究を追求し続けた結果、技法を再現させただけではなく、現代風にアレンジを加えたオリジナリティ溢れる作品を作り上げました。
その為、江崎一生は常滑最高の祖と呼ばれ、没後も「幻の人間国宝」とまでいわれており、現在でも高い評価を受けています。