沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉の2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主であった島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元となります。
薩摩焼は黒もんといった黒っぽい色の陶器をご存じかと思いますが、沈壽官の薩摩焼といえば、白もんといった呼び名の白薩摩が有名です。白薩摩と黒薩摩の違いは、土に鉄分を含んでいるか否かの違いです。桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では鉄分の多い土が取れる為、どうしても黒っぽい陶器となっていました。当時の日本は、朝鮮のような白っぽい陶器に憧れをいだいていたこともあり、島津家は沈当吉に白い焼き物を作れとの命を受け、7年もの歳月をかけて完成させ、完成後に白薩摩を献上すると喜んだ当主が、薩摩焼と名付けたことが薩摩焼の始まりとされています。
当代である15代目も1999年に15代目を襲名してから、沈家に伝わる伝統を引き継いでいますが、その作風は余白の取り方や造形に工夫を重ね、高度な作陶技術で美を追求しております。白薩摩による典雅な金襴手や、細かい所にまで注意を極める透かし彫り、蝶や小動物などの浮き彫りといった微細な貫入を特徴としております。また韓国の明知大学客員教授に就任し、日韓の交流にも積極的に取り組んでいることで有名な方となります。
陶芸家一覧
エミール・ガレ
エミール・ガレは、父シャルル・ガレと母ファニー・レーヌメールとの間に1846年フランス北東部のナンシーで生まれます。
両親は陶磁器とガラス器を扱う店舗をナンシーに構えていました。
1858年から1864年までナンシー帝国のにあるリセ(高等中学校)で学び、その後は植物学に没頭、フランスの植物学の権威であるドミニク=アレクサンドル・ゴドロンの指導も受けたこともあります。
1864年にバカロレア(大学入学資格)を取得した後、ドイツに留学し、ドイツ語や鉱物学を学びました。
1870年の普仏戦争では、義勇軍に志願し、南仏トゥーロンなどで宿営もしています。
1877年に父の後を継いで工場管理責任者になります。
その後ナンシー中央園芸会の創立メンバーとなり、事務局長も務めました。
日本をはじめとする極東や東方の文化と美術品に親しみ、それらは紛れもなくガレのジャポニスムや異国趣味的作品の重要な霊感源となります。
ガラス工芸の分野においてアール・ヌーヴォーの旗手として知られ、文学や哲学・植物学などの多岐にわたる研究をもとに、ガラスの造型と意匠にその博識を発揮し19世紀ガラス芸術界を牽引しました。
加藤孝造
加藤孝造は岐阜県出身の陶芸家です。
可児市に窯を開き独立しますが、それまでは、同じく岐阜の陶芸家である5代目加藤幸兵衛に陶芸の指導を受けました。
若いころには絵画にも携わっており、日展の洋画部門ではその回の最年少受入選になるほどでした。
しかし、地元である美濃陶芸の道を志し、桃山時代の志野・瀬戸焼の再現に取り組んでいた荒川豊蔵(「志野・瀬戸黒」人間国宝)に師事します。
平成22年には、重要無形文化財「瀬戸黒」の技術保持者(人間国宝)に認定されます。
現在は、美濃陶芸会会長として、美濃陶芸の発展に尽力する中、若手陶芸家を集い「風塾」を創設します。後継者の育成にも力を注いでいます。
瀧田 項一
瀧田項一は日本を代表する陶芸家です。
東京美術学校では、人間国宝・富本憲吉に学び、濱田庄司工房へ入門。益子焼の人間国宝・浜田庄司に師事しました。
陶芸家としての顔は勿論ですが、研究家としも有名で、中国やドイツ、トルコなどを各地を美術調査渡航しました。また、沖縄県立芸術大学に10年間就任しています。
陶芸家としては、57歳の時に地元である栃木県須烏山市に「俱門窯」を築きます。
呉須赤絵作品が多く、草花や動植物の絵柄は気持ちを落ち着かせてくれるような和ませてくれる作品です。動物には躍動感をつけたり、草花は風に吹かれた描写をしていて、自然の美しさを感じる作品もございます。
赤絵と同じくらい白磁作品も多くあり、浜田庄司を彷彿しますが、持ち手や象嵌にはオリジナリティーを感じます。
長年の多くの功績が認められ、1998年には栃木県文化功労賞を受賞されました。
谷本 光生
谷本光生は洋画の作家から陶芸家へ転身し、地域文化功労者に表彰された伊賀焼の陶芸家です。
伊賀焼は、400万年ほど前に伊賀地区がまだ琵琶湖の一部にあった際のプランクトンが堆積してできた土を使用しており、17世紀初めの伊賀焼である古伊賀は日本最高峰の陶磁器と言われ、器壁には、ヘラ工具を使用した波状の文様や格子状の押し型文様の他、ゆがみ、緑色のビードロ、灰かぶりや焦げ、鉄釉を垂らすといった技法が見られ人の手に施される性質の強い作品となっています。
大正3年に三重県に生まれた谷本光生は、当初は洋画家を目指し前衛的な絵画制作を行っていましたが、1946年に大阪の阪急百貨店にて開催された「古伊賀名品展」に感銘を受け、伊賀焼の陶芸作家になるとを決意し、工芸へ転向します。
その後は小森忍と日根野作三に師事し、1960年代に団体による展覧会発表に疑問を持つようになるまでは古伊賀の伝統を踏まえた現代陶器を制作していたが、個展に出品するようになってからは古伊賀をモチーフにした重厚なわび・さびを表した抽象的な表現になっていきました。
陶器以外にも書や絵画にも精通し、個展で発表し、現代伊賀の発展に寄与したとして1996年に文部大臣より地域文化功労者として表彰され、1997年には三重県教育文化賞などを受賞している。
好本 宗峯
好本宗峯は備前焼で唯一須恵器を制作している人物です。
須恵器とは、古墳時代中頃から奈良・平安時代以後まで作られていた灰色の土器であり、祝部土器とも呼ばれ吸水性が少なく、硬質であることが特徴です。
朝鮮の新羅土器の流れを汲むもので弥生土器や土師器とは異なる物で、奈良時代には備前でも焼かれていたものでした。
好本宗峯も、独立してから10年間は一般的な備前焼を焼いておりましたが、備前の須恵器は他の産地と比べると遥かに白くきめもある仕上がりであった為珍重されており、貢物として人気を博しており、好本宗峯もその美しさに魅了され須恵器の制作と再現を試みていきます。土は伊部の土を使いますが、鉄分の多い土は、備前焼に、白っぽく鉄分の少ない土を須恵器に使っています。制作は手回し轆轤を使う紐作り、蹴り轆轤を場合によっては使っています。
作品としては、須恵擂鉢、片口向付、備前須恵徳利、須恵ぐい呑、須恵水指などの作品があり、自然灰釉が厚く掛り、強還元焼成で透明感溢れる作品となっております。
平安時代に尾張の猿投窯で灰釉陶が大量に作られるようになったことで衰退していった須恵器を復元させるために、何度も試行錯誤を繰り返し、すばらしい須恵器を再現した陶芸家であり、息子である好本康人も備前焼の陶芸家として活躍されております。
金城 次郎
金城次郎は沖縄県で初めて国の重要無形文化財「琉球陶器」保持者(人間国宝)に認定された陶芸家です。 大正元(1912)年に沖縄県に生まれ、大正13(1924)年に壺屋の名工である新垣栄徳に従事し、昭和21(1946)年に独 …
若尾 利貞
若尾利貞は現代の美濃(多治見)を代表する陶芸家の一人で、特に鼠志野の第一人者と言われています。 志野焼の一つに鼠志野があり、志野焼とは耐火温度が高く焼締まりが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色 …
江崎 一生
江崎一生は、1918年に愛知県の常滑で生まれました。 この愛知県の「常滑」という地域はご存じの方も多いと思いますが、陶器の日本六古窯の一つになります。 千年という非常に長い歴史を持った焼き物の産地でしたが、この常滑は時間 …
荒川 豊蔵(豊藏)
荒川豊藏(あらかわとよぞう)は岐阜県多治見市に生まれ、京都の宮永東山窯で工場長を務めたことから陶芸の道が始まりました。そこで、北大路魯山人と出会い、その際に、神奈川県鎌倉市山崎にある星岡(せいこう)窯へ招かれ、古陶磁の知 …
川喜田 半泥子
川喜田半泥子(本名・久太夫政令)は三重の実業家ですが、趣味であった陶芸作品が高く評価され、今なお高い人気を誇る人物です。 半泥子は1878年、伊勢の豪商の16代目として生まれました。生後間もなく祖父・父が相次いで亡くなり …
武腰 潤
現代九谷の代表作家である武腰潤。九谷焼の伝統様式を受け継ぎつつ、現代技術により再現されるその作品は、自身の憧れである古九谷を越えるため、いまなお進化を続けています。 武腰は九谷泰山窯の4代目として石川県に生まれました。大 …
長岡 空郷
長岡空郷(ながおか くうきょう)は、楽山焼の伝統に則り、茶陶を中心に制作し、伊羅保や刷毛目、出雲色絵など幅広く手掛けています。 伊羅保とは、砂まじりの肌の手触りがいらいら(ざらざら)しているところに由来するとされています …
芦澤 良憲
芦澤良憲の因久山焼は、鉄分を多く含む地元の土と藁灰釉や緑釉、海鼠釉、辰砂などを用いて、伝統的作風を重んじた作品の製作に力を注いでいます。元鳥取城御庭窯の登窯を維持し、年2回の窯出しを行っています。因久山の名は窯の所在地で …
安食 潤
安食潤は、安食ひろの息子なあたります。穴窯焼成による塩釉の茶碗を中心に作成し、力強い造形と彩色で独自の世界を追求している現代陶芸作家です。安食潤の作品は素朴で力強い作品が特徴です。近年の作品である深い青藍色の瑠璃塩釉茶盌 …
安食 ひろ
安食ひろは、塩釈を用いた作品を得意とし、市松模様に面取りをした胴に金彩その他の彩色を施した「バサラ(婆沙羅」茶碗、塩釈を用いた作品を得意とし、市松模様に面取りをした胴に金彩その他の彩色を施した「バサラ(婆沙羅」茶碗などを …
浅見五郎助(当代)
6代 浅見五郎助(当代)は、代々得意とする三島手、刷毛目手、祥瑞手染付を受け継ぎ、伝統陶芸の道に励んでいます。 歴代についてですが、2代 五郎助(生没年不詳)は磁器による煎茶道具の製作も行い、還暦を境に「五祥」と名乗るよ …
浅見五祥
浅見五祥は、浅見家伝統の御本土を用いた三島手(ミシマデ)、刷毛目手(ハケメデ)、祥瑞手染付(ションズイデソメツケ)を基本として、金彩や錆絵で上絵付けした雅な作品なども手掛けており、茶道具全般のほか懐石道具も製作しています …
上野 喜蔵
上野喜蔵は、上野焼、八代焼の祖と言われています。もとは尊楷と言う朝鮮半島の陶工になります。文禄の役(1592~1593年)後、加藤清正に従って来日しました。豊前国(福岡県)小倉藩主細川斎三に招かれて、慶応10年(1605 …
四代 赤沢露石
四代(当代)赤沢露石(赤沢正中)は、二代赤沢修三の孫にあたります。 京都で代々続く交趾焼(コーチやき)の家に生まれ、京都市立日吉ヶ丘高校美術科を卒業後、交趾焼を祖父の二代赤沢露石(修三)より修得します。 日本伝統工芸展に …
河井 寛次郎
「河井寛次郎」という名をみなさん聞いた事はありますか? 大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した日本を代表する陶芸家の一人が「河井寛次郎」さんです。 河井寛次郎氏は島根県に生まれ中学生のころから陶芸家を目指していました。 …
青木 木米
青木木米は、江戸後期の陶工,南画家です。 京都祇園の茶屋「木屋」に青木左兵衛の子として生まれました。俗称は八十八、縮めて米と称し、屋号の木を取ってあわせ木米と名乗りました。字は佐平、号は九々麟・百六散人・古器観・聾米など …
小山 冨士夫
小山冨士夫は、日本における中国陶磁器研究の大家として名高い人物ですが、その一方で自ら作陶も行っていました。 1923年、陸軍に志願した際、同期にいた陶器好きの影響を受けたのが、この世界に入るきっかけとなり、1930年には …
藤本 能道
藤本能道は、本焼きの前に色釉により絵付けをする「釉描加彩」という技法を確立し、色絵磁器の人間国宝に認定された人物です。 1919年に現在の東京・新宿に生まれ、中学卒業後は東京美術学校工芸図案部に進みます。卒業後は文部省技 …
三代 徳田 八十吉
三代徳田八十吉は、昭和から平成にかけて活躍した九谷焼の陶芸家です。 初代徳田八十吉の孫として生まれ、金沢美術工芸大学短期大学工芸科陶磁専攻を中退してからは祖父である初代と二代目に師事し作陶を学びました。1988年に三代目 …






