二上常太郎は、富山出身の蝋型師です。
伝統工芸の街・富山県高岡市で生まれ、斯界に誇る技術保持者の一人として、銅器を愛しその鋳肌に魅せられ、およそ60年の間創作活動を続けて居られました。作品は鍛え抜かれた技法のたしかさと気品、風格で満ち溢れ、観る者を魅惑してやまぬものがあると賞讃されており、人間国宝級の技法として業界からは高い評価を得ております。
蝋型とは、鋳金技法の一種です。まず、中子と呼ばれる鋳物の中空部を作るために生型と別に使われる鋳型を使い、その表面を蜜蠟と松脂を混ぜたもので覆って原型を作ります。その後粘土汁を混ぜた泥を塗り、乾燥させた後、加熱して蝋を溶かして空洞を作り鋳型とします。あとはこれに溶かした金属を注入し、冷めたら型を壊して完成します。
二上常太郎の主とした製作技法であり、銅製の美術品、花器や仏具といったジャンルで多く作品を残されています。
マイセン(Meissen)はドイツ発祥の有名な磁器窯です。そして、ヨーロッパで初めて硬質磁器を生み出した窯でもあります。名前を聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。
交差した2本の剣をシンボルとしており、ノーブルな白磁と絢爛な絵付がなによりの特徴となります。主には食器、また花瓶や人形などを手掛けており、華やかでつい見とれてしまうような作品ばかりです。
古くは18世紀初頭、ザクセン(ドイツ)の強王・アウグストI世の命により錬金術師ベトガーが初めて白磁の焼成に成功させたことを機に、ドイツのアルブレヒト城内に設立されたマイセン王立磁器研究所からはじまりました。
今に伝わるマイセン300年の歴史の中では、初期のバロック様式からロココ様式、新古典主義から歴史主義、自然主義、近代のアール・ヌーヴォー、アール・デコと、美術様式の変遷とともに新たな表現の可能性が追求されてきました。
西洋美術の潮流の中で常に中心にあり続け、積み重ねた伝統と変革の層の上に、西洋磁器窯の最高峰である現在の「マイセン」が屹立しているといえるでしょう。
デルフト窯は16世紀からオランダで生産されている陶器です。
白地に鮮やかな青色で絵付けしたものはデルフト・ブルーと呼ばれており、日本ではデルフト焼とも呼ばれております。
オランダで活躍した画家フェルメールの作品にも登場するほど、デルフト窯の陶器はオランダの人々に親しまれていました。
黎明期は、素地にスズ白釉を掛ける南ヨーロッパの軟質陶器「マジョリカ陶器」の技法に強く影響を受けておりましたが、17世紀ごろからは中国磁器や日本の伊万里焼の模倣の制作が盛んになり、その影響はコバルトを主とした絵付で極東風の模様やヨーロッパの詩情を描く現在の形に繋がっています。
一時はオランダの窯場で焼かれた陶器はすべてデフルト磁器と呼ばれるほどにその名が隆盛しましたが、18世紀ごろからはイギリス製磁器に市場が押され、現在オランダで続いている窯元はデルフト窯とティヒラー・マッカム工房の二つばかりとなっております。
頼 山陽は、江戸時代後期の日本を代表する歴史家であり、漢詩人、漢学者です。
1780年大阪江戸堀で広島出身の儒家であった頼春水(しゅんすい)の長男として生まれます。
翌年、1781年には広島藩藩儒に就任した頼山春水とともに広島に移住します。
多忙な父春水は度重なる江戸勤番によって家族は10年以上別居状態だったといわれています。
その間に、頼山陽は母である梅颸(ばいし)や叔父である頼杏坪(きょうへい)の教育を受け、詩文の才能に目覚めますが、頼山陽は精神的に不安定な上、病弱で何度も発作を起こしました。
1797年頼山陽は江戸幕府直轄の学校へ入学しますが、約1年で広島に戻り、2年後には儒医者の父を持つ淳という娘と結婚しました。しかし、翌年には脱藩をはかり京都へ逃げました。
頼家が一生懸命捜索し、叔父であった頼春風(しゅんぷう)に見つかり、広島へ戻され5年間、屋敷内の座敷牢へ幽閉されました。
5年間の謹慎の中で頼山陽は、自身の没後ベストセラーとなった源平時代からはじまる武家興亡の歴史をテーマとした『日本外史』の初稿を完成させます。
謹慎が解けた後は広島の私塾で塾頭を務めたのち、1811年に三都(京都、大阪、江戸)に進出して天下に名を上げるとして私塾を辞め、京都に向かいます。京都で自ら私塾を開き、友人の小石元瑞(げんずい)の養女であった梨影(りえ)と出会い再婚。ようやく安定した日々を送ります。
『日本外史』のさらなる深掘りに取り組む一方、後藤松蔭をはじめとする優秀な弟子を育て、さらに九州を周っては多くの知識を吸収し、多くの優れた詩文や書画を残しました。
1826年には20年以上歳月をかけた日本外史がついに完成し、翌年には元老中松平定信への献上に成功。その後1832年に結核にかかってしまい、53歳という若さでこの世を去りました。
宇野亜喜良はイラストレーターで50年以上日本のイラスト界ではトップを走り続けている人物でもあります。
「イラストレーション」「イラスト」と聞くと、「簡略化された絵」や「漫画やアニメみたいな絵」というイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、イラストレーションの定義は「複製されるための絵」となっておりますので、絵の作風などは関係なく、本の装画やポスター、雑誌などの媒体に使われるものを「イラスト」と呼びます。
今となっては当たり前に聞く「イラスト」という言葉ですが、この言葉ができたのは戦後になってからで、宇野亜喜良、横尾忠則、和田誠らによって広められたといっても過言ではありません。
また、上記の3名や当時のイラストレーターはグラフィックデザイナーから転身していることが多く、みゆき族やヒッピーファッションが広まっていた当時の若者の支持を広く得ることになり瞬く間に広まっていきました。
宇野亜喜良の作品は、主にペンで少女や猫などを描かれていることが多く、少しノスタルジックな雰囲気を感じる作風の物が多いです。
またどの年代の作品を見ても「古さ」を感じさせない普遍的な魅力を感じさせてくれる作家です。
王錫良は、中国の美術工芸作家です。
1922年の景徳鎮に生まれ、若くから珠山八友の一人である王大凡に師事し、磁器と絵画を学びました。
1950年頃に在籍していた陶器科学研究院では、王大凡をはじめとする景徳鎮磁器の実力者たちと共に過ごし、目耳と腕を養いました。四十、五十代に差し掛かってからは祖国を旅し、自然に対する造詣を深め、創造に落とし込みました。
王錫良は、シンプルに表現された風景画や人物画を得意とします。中国絵画の潮流を汲み、かつその中で自然的で滑らかな構図が意識されています。高尚さを排し、自然へ帰するような作風が、中国で広く愛される彼の魅力です。
1979年には、景徳鎮で初めての「中国工芸美術大師(中国の人間国宝)」の受賞者となっています。2016年には個人作品のオークション総売上高が1億元(日本円で19億円)を超えており、名実ともに中国屈指の芸術家であるといえるでしょう。