Nikonは日本の光学機器メーカーで、1917年にいくつかの製作所が統合し「日本光学工業」として誕生します。
当時、日露戦争での勝利や第一次世界大戦への参戦などで欧米列強と肩を並べるまで近代化に成功した日本にとって、国内での軍用の光学機器生産は急務でした。
研究施設で日夜レンズの研究に励み、1921年に初めて開発・設計・製造を自社で行った超小型双眼鏡ミクロンを発売、その後もドイツ人技師を招聘するなどして写真レンズなど様々なレンズの開発していきます。
1932年には写真レンズを日本工学の略称「ニッコー」を用いて「NIKKOR(ニッコール)」と命名し、今でも続くNIKKORレンズの誕生となりました。また、航空機などに搭載するレンズの他に小型カメラの開発を進め、その名称を「Nikon(ニコン)」と名付けました。
1948年には初めての小型カメラ「NikonI型」を発売。発売当初は相次ぐ苦情の対応に追われたと言いますが、その後様々な改良機や後継機を発売し、ニューヨークタイムスに優秀な機器であることを掲載され、世界トップクラスのドイツ製のカメラと肩を並べるようになりました。
1959年初めての一眼レフ「Nikon F」を発売します。独自の規格「Fマウント」は”不変のFマウント”とも呼ばれ、古いレンズでも特殊なアダプター等がなくても使用できることから高い人気を得ることになりました。
現在のカメラ市場の主流ともいえる「ミラーレス一眼」の開発には遅れを取ったニコンですが、それまで培ってきたレンズの描写性能、ファインダーの見やすさ、堅牢なボディなどは他メーカーのカメラファンからも高い評価を受けています。
またミラーレス一眼の登場によって古いレンズがより注目されるようになり、ニコンのレンズは高い性能と販売数が多く、手頃に手に入れられることから人気となっています。
大樋年朗(本名:奈良年郎)は、代々大樋焼を継承する本家「大樋長左衛門」の十代目となる人物です。
大樋焼は金沢にある、楽焼を源流とした陶芸窯、およびその流派です。
年朗は1927年に九代大樋長左衛門の長男として生まれ、早くから陶芸家としての道を進み始めました。
東京芸術学校(現・東京藝術大学)の工芸科を卒業すると、翌年には日展で初入選。その後も日展を中心に幾度も受賞するなど、活躍されました。1967年には、史上最年少となる39歳で日展の審査員も務めました。
1987年に十代大樋長左衛門を襲名し、2016年に長男に名跡を譲るまで長左衛門として活動しました。
「年朗」という名前は、大樋長左衛門の型にとらわれず作品を発表する際に使用される名です。飴色の釉薬を使うことで出る艶のある独特な輝きが大樋焼の魅力であります。その伝統性を取り入れながらもオリジナリティのある造形を持った作品や、はたまた全く異なる技法を用いた制作など、その作品からはいわば陶芸の世界への深い愛が感じられます。
四代徳田八十吉は、代々続く九谷焼の名跡「徳田八十吉」の当代です。
人間国宝・三代八十吉の長女として1961年に生まれ、現在も活躍されている作家さんです。
幼いころより父の背中を見て育ちましたが、当初は陶芸家になるとは考えていなかったそうです。青山女子短期大学を卒業後はNHK金沢放送局に就職し、ニュースキャスターをしました。
転機が訪れたのは二十代半ばの頃。アメリカの美術館に飾られていた中国の景徳鎮の壷を見た時に、自身のルーツを顧みたといいます。
その後は陶芸家としての道を歩み始め、陶壁制作などで頭角を表していきます。徳田八十吉の製陶技術、三代の耀彩技術を継承し、三代没後の2010年には四代徳田八十吉に襲名しました。
作品の特徴はやはり、三代から受け継ぐ耀彩技術を用いた磁器でしょう。いくつかの配色がグラデーションとなって立ち現われ、絵付を必要とせずに鮮やかな作品が出来上がります。四代の配色はどこか柔らかさやつつましさを感じさせるようで、三代とはまた違う気品が見て取れるでしょう。
三輪晁勢は、新潟県出身の日本画家です。
1901年に生まれ、昭和期に多くの優れた作品を残されました。
父の影響から、晁勢は小学校を卒業した後より絵を学び始めました。その後、京都市立美術工芸学校を卒業したあと、京都市立絵画専門学校に入学します。そこで同校に在学していた堂本印象に師事することとなり、以降印象との関係は長く続くこととなります。
同校卒業後は帝展で初入選、また特選を二度受賞するなど大きな躍進を遂げます。師・印象が画塾「東丘社」を結成すると、そこでは塾頭として中心的な存在となりました。
戦後は日展を中心に活動し、のちに日展評議員となった他、師・印象の没後は東丘社の主宰となるなど日本画壇で位置を占めるようになりました。
広い画題を扱い、鮮やかな色彩を用いた画風が特徴となります。色彩から迫力を感じさせるような風景画を描く一方、華やかな色味ながらどこか落ち着きのある花鳥画が特に印象的で、風景と花鳥は晁勢の画題の中でも人気のあるものとなります。
森一鳳は、江戸時代後期に活躍した絵師です。
写生的な画風が人気を呼び、多くの作品が今でも親しまれております。
森狙仙、森徹山に続く森派の絵師であり、同時に弟弟子の森寛斎とともに森派最後の絵師として語られております。
播磨国吉田村(現・兵庫県)を出世の地とし、丸山応挙や森徹山に学びました。24歳の時に徹山の養子となって森派を継承し、代々森派が仕えてきた熊本藩細川家のお抱え絵師となります。
一鳳は写生を基本とした画風で、季節感のある描写を得意としました。一流の絵師としての人気を確立していた一鳳ですが、その地位を確固たるものにしたのは「藻刈舟」を題材にした作品です。
藻刈舟とは、舟運の妨げとなる藻を刈る舟のことです。当時の大阪の商家では「藻を刈る」=「儲かる」として藻刈舟絵が縁起物的な人気を博していました。その中で一鳳の描く藻刈舟絵は「藻を刈る 一鳳」=「儲かる 一方」となることから、大変縁起が良いと評判になりました。
大阪の商人たちがこぞって求めた森一鳳の作品は、単なる洒落気のみではない魅力がございます。機会があればじっくりとご覧になってみてください。
松井ヨシアキさんについてご紹介させていただきます。
1947年に福井県福井市にて松井さんはお生まれになられました。
松井さんの詳細は多くが語られておりませんが、洋画家としての芸術性の高さは誰もが認めるほど素晴らしく、近年評価が高くなってきております。
25歳で初個展を開催以降、37歳で第19回昭和会展に出品、昭和会賞を受賞。そこから怒涛のように40を超える個展が開催され、多くの方に松井さんの魅力が伝えられていきました。
そんな松井さんは1995年、パリで個展を開催する機会に恵まれました。それが松井さんの転機となったのでしょうか。以来、パリを毎年のように訪れ、数カ月過ごすというような生活をされ、それが松井さんの絵の大きなテーマとなっていきました。
松井さんの作品は街角の風景やそこにいる人々などを題材にしていることが多く、実際に松井さんが散歩をしてその通りを歩いたり、素敵な人々と出会ったのだと想像できるような作品が多いのが特徴です。さらに、絵の具に大理石を混ぜて厚塗りをする技法によって、少しだけ煌びやかに、そして絵柄も相まってファンタジックな作風になっているところが、多くの人の印象に残るのではないでしょうか。
すでに注目されている作家ですが、評価も年々上がっているため今後ますます人気が出てくると思われます。