キヤノンは日本の光学機器やプリンターなどのOA機器メーカーですが、最初は高級カメラの製造を目的として創立された精機光学研究所という小さな研究所でした。1935年に日本で初のフォーカルプレーン式のカメラ「KWANNON(カンノン)」を試作したのが、キヤノンにおいては最初の製品となります。
その後カンノンと音が似ており、「規範」や「聖典」などの意味があり、「精機」とも親和性が高いことから商標を「CANON」で出願。その後、この呼び名で一般的に名前が知れ渡る様になりました。また当時の仮名遣いを踏襲している為、片仮名表記では小文字の「ャ」ではなく大文字表記のため「キヤノン」と表記されます。
カメラ産業においては1959年にはキヤノン初の一眼レフを発売、2001年頃からはコンパクトデジタルカメラやデジタル一眼カメラなどを発売、2013年頃からはミラーレス一眼機を発売するなど時代に合った製品を製作しています。
カメラメーカーではよく「ニコン」と比較されるキヤノンですが、”記録色”と言われる実際の色味に近い発色=あっさりした色が持ち味のニコンに対して、キヤノンは”記憶色”と言われる記憶の中に残った色を再現する=鮮やかな発色が持ち味であり、特に人の肌を美しく表現することが得意なため写真屋さんなどからの需要が高いです。
現在カメラ市場においてはソニーがかなりのシェアを占めていますが、それぞれの時代で最先端を走ってきたキヤノンの今後の活躍にも期待です。
中川義實は明治時代頃に活動した岡山県出身の金工師です。
義實について残された資料は少なく、明治時代頃までの金工師をまとめた『古今金工一覧』と父・正阿弥勝義の手紙の宛先と内容からその活躍を知る事が出来ます。
『古今金工一覧』によると「夏雄門中川氏十四代目ナリ東京後ニ京師住」とあります。ここから加納夏雄に師事した中川家の14代目である事が見受けれます。加納夏雄は京都の名工として知られ、中川家は父・正阿弥勝義の生家で岡山の金工師の名門として知られます。また、勝義との手紙から東京や京都・大阪にいたことは間違いありません。手紙の内容から神戸に光村家という顧客を抱えており、刀装具を依頼されていたことが分かります。
義實の作品は刀装具のほかに鉄瓶や香炉から仏像まで広く残されています。そのいずれも美麗であり、細緻に富んだ仕上がりとなっております。
残念ながら世にあまり認知されておらずインターネットでは海外向けの販売サイトのみヒットし日本語のサイトが全く出ない人物となっております。少しでも中川義實が世に広まり、緑和堂にお持ちいただけることを心よりお待ちしております。
金龍堂は、初代大國壽朗が発足した鉄瓶や金工品を得意とした工房です。
初代の大國壽朗の他にも松尾忠久、佐野直之らの有名作家が在籍していました。
金龍堂の歴史は古く、明治期~大正期にかけて多くの名品を世に残しました。
明治期は、亀文堂、龍文堂、金寿堂などの有名工房が数多く存在した時代で、その年代の職人達の技術力の高さは現在でも世界的に高い評価を受けている作品ばかりです。
今回紹介させていただく『金龍堂』も国内のみならず、中国本土や台湾などの煎茶文化が盛んな国でも高い人気を誇ります。
金龍堂の作品にも様々なタイプがありますが、特に人気が高いのは『鉄瓶』です。
特に初代である大國壽朗の作品となると数百万円で取引されている品も存在します。
初代木越三右衛門(木越正之)は、江戸時代に河北郡木越村で生まれました。農民の出身でしたが、鋳物師としての才能を見出され、横川長久のもとで修行しました。18歳の時には、師である横川長久の命により金沢天徳寺の梵鐘(釣鐘)を製作し、質の高い作品を作った事で評価されました。彼は鉄瓶や釜などの茶道具を得意とし、特に金沢藩主前田家の御用釜師としても活躍しました。彼の技術と作品は代々三右衛門と称され、木越家の伝統として受け継がれました。
木越三右衛門の鉄瓶や鉄釜は、和銑(わずく)という日本古来の技法で作られています。和銑は砂鉄とたたら製法で製錬することで作られ、洋銑よりも高度な技術と手間がかかりますが、錆びにくく強靭な特性を持ちます。そのため、数百年前の鉄瓶や釜が今でも美しい状態で残っています。また、象嵌という伝統的な工芸技法で装飾された鉄瓶は、特に高い人気があります。これらのお品物は、茶人や文豪にも愛され、現在でも高い評価を受けています。
山近泰は1975年石川県能美郡にある代々続く窯元に生まれ、幼いころから九谷焼に囲まれて育ちました。
九谷五彩と呼ばれる赤・緑・黄・紫・紺青を駆使して、様々な動物や植物を生き生きと描く新進気鋭の陶芸家であり、その色鮮やかな色彩は、九谷焼の伝統を引き継ぎながらも、幻想的で独特な世界観を創り出しています。
造形から上絵付までの全ての工程を自ら手がける彼の作品は、平成29年伝統九谷焼工芸展で最優秀賞を受賞するなど、多くの美術展や工芸展で高い評価を得ています。
山近泰はもともと清山窯4代目として生まれましたが、独自の世界観を表現するためにも2011年、石川県野々市市に大志窯を開窯しました。
また、2022年にはイタリアの高級車ブランドであるアルファロメオのノベルティ制作を手がけ、さらに活動の幅を広げています。
十二代 聴松宗守 愈好斎(ゆこうさい)は茶道の武者小路千家の家元です。
名は嘉次、宗守、別号として聴松。
明治から昭和の半ばにかけて活躍された茶人です。
武者小路千家の十二代家元ですが、元々は表千家久田流十代家元・久田宗悦の次男として生まれました。
武者小路千家十一代家元・一叟宗守に子がいなかったため養子として迎えられました。
三千家と呼ばれる「表千家」「裏千家」「武者小路千家」ですが、その存続のために互いに助け合いながら発展してきた歴史があります。
愈好斎の実父である久田宗悦にしても、表千家十代・汲江斎の三男であり、祖父は久田流七代家元・久田宗也というように、多くの代で互いに後見人を務めたり、養子になったりと密接に結びついています。
幕末から昭和という激動の時代を互いに支えあって発展してきたのです。
そんな歴史の中、愈好斎も波乱の人生を歩みます。
養子として武者小路千家に引き取られますが、十一代・一叟宗守が愈好斎が九歳の時に亡くなってしまいます。
そのため表千家十一代家元・碌々斎や十二代家元・惺斎の元へと引き取られ、茶道を習います。
この表千家へ引き取られている期間は、武者小路千家としては一時中断という形になりますが、その期間に愈好斎は東京帝国大学へ入学し、国史学を学びたくさんの知識を身に着けます。
そして大学卒業後に宗守を継承して十二代家元となり、武者小路千家を再興させます。
再興後は武者小路千家に代々引き継がれてきた官休庵を改築し、利休居士350年忌に際して、稽古の間である弘道庵を再興させます。
愈好斎は伝統を継承しつつも、論理的に現状を分析、批判し、近代の茶道を改めました。
優れた門弟を輩出する傍ら、多くの著書を出版するなど、現代茶道に大きな影響を与えた人物と言えるでしょう。