1946年、愛媛県にて、画家・定岡玲艸子(れいそうし)を父に持ち誕生した洋画家で、親子二代にわたって活躍しました。主にヨーロッパ、特にフランス・パリの風景を題材に作品を描き、「父子二人展」などの展覧会も開催しています。
彼の作風は、パリの日常風景を題材に、力強い筆致と独自の色彩感覚によって描かれるのが特徴です。取材旅行を行うなど創作への探究心も旺盛で、制作した作品が受賞することもありました。
晩年には日本の風景も描くようになりましたが、1994年、48歳の若さで逝去しました。
色彩の調和と筆致の緩急のバランスが絶妙で、魅力あふれる作品を多く残し、現在でも多くの人々に愛され続けている作家です。
曾我 蕭白は、江戸時代中期に活躍した絵師です。
独特で強烈な画風が特徴的で、「奇想の絵師」と呼ばれました。
彼に関する詳細な資料はほとんど残されておらず、その生涯は不明な点が多いです。
1730年に京都の商家に次男として生まれ、「高田敬輔」に師事したとされています。
両親と兄妹がいましたが、彼が11歳の時に兄が亡くなり、その3年後に父親、また3年後に母親が亡くなりました。
彼は、二十代~三十代にかけて伊勢や播州を巡りながら作品を制作しました。
大胆にデフォルメされ、荒々しく奇抜に描かれた作品はどこか妖しげな印象を与え、ある種の恐ろしさすら感じさせます。
このような作風は、当時から現代においてもなお、見た人が忘れられなくなるほどの衝撃を与え続けています。
代表作には『群仙図屏風』『旧永島家襖絵』などがあります。
周徳は、雪舟の優秀な弟子であり、雪舟流を正統に受け継いだ画僧です。
惟馨(いけい)と号し、山水画や人物画を得意としました。
周徳の生没年については明らかにされておらず、遺された作品などから16世紀初頭に活動していたとされています。
はじめは東福寺(京都府)に住んでいましたが、雪舟の死後は「雲谷庵(山口県)」を継いで、二代目庵主になったとされています。
周徳は、仏画や花鳥画などを題材とした幅広い作品を手掛けました。
墨の滲みやぼかし、濃淡を巧みに使い、立体感や自然の空気感を表現しています。
静かな美しさを感じさせるような、落ち着いた構図も魅力的です。
代表作には『山水図』『紙本墨画布袋図』などがあります。
小堀 遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人・作庭家・建築家です。
「遠州」という名前は通称であり、本名は「小堀 政一」です。
1579年、近江国(現在の滋賀県)に生まれた遠州は、父親から英才教育を受けて育ちました。
1593年より「古田織部」から茶の湯を学び、茶道や建築など様々な分野で活躍しました。
「名人になる」と織部に評価され、古田や千利休の流派を基盤とした「遠州流」という流派を確立しました。
簡素な中に華やかさを交えた小堀独自の美意識は、「綺麗さび」という言葉で知られています。
生涯で400回もの茶会を開催し、幅広い階層の人々と交流を深めました。
彼が建築や造園に携わった代表的な作品には、『南禅寺金地院』『桂離宮』『仙洞御所』などがあります。
仙厓 義梵は、脱力感のあるユニークな禅画で知られる禅僧です。
1750年、仙厓は美濃(現在の岐阜県)に貧しい農民の子として生まれました。11歳で出家得度し、「仙厓義梵」の名を与えられます。
40歳で聖福寺の住職となり、62歳まで勤めました。寺院の再建や、弟子の育成に尽力し、隠居後は多くの絵画作品を制作しました。
仙厓は、上手い絵にこだわらず、ルールを定めず、自由に描くという意味の「厓画無法」をモットーとしていました。社会の常識や圧に屈しない、強い反骨精神を表した逸話が、数多く残されています。
仙厓が描く温かい作品には、人生の教訓や本質、禅の教えが込められています。時代を超えてもその本質は変わることなく、現代にも通ずる部分が多くあるのではないでしょうか。
代表作に『〇△▢』『犬図』『指月布袋画賛』などがあります。
1942年、滋賀県信楽町に生まれた神崎紫峰は、関西大学法学部に進学し、当初は法曹界を目指していました。しかし、卒業後に陶芸の道へ進むことを決意します。
作品を築き上げていく過程では多くの苦闘がありましたが、やがて桃山時代以前の幻の名陶とされる古信楽・古伊賀の再現に成功し、その成果は作品にも大きな影響を与えました。
神崎は公募展には出品せず、個展を中心に活動を続けてきました。その影響もあってか、国内よりもドイツやアメリカなど海外での評価が高い作家として知られています。アメリカ陶芸界の最高峰と称されるピーター・ヴォーコスも、神崎紫峰の作品と作陶活動に強い関心を寄せ、実際に信楽の窯場を訪れたこともあります。
主に花瓶、抹茶碗、水指などを中心に制作しており、古信楽・古伊賀をはじめとする作品の美しさは、今なお高い人気を誇っています。