原 羊遊斎は、華やかな作風で知られる江戸時代後期の蒔絵師です。
伝統的な技法と独自の美意識を合わせた、緻密で洗練された蒔絵作品を多数制作しました。
1769年に江戸に生まれ、蒔絵師の「鶴下遊斎」に師事し、蒔絵を学びました。
20代後半になると、腕を買われて藩主の御用品を多く手掛けました。
彼の生涯については不明な点も多く、1845年、または1846年に亡くなったとされていますが定かではありません。
谷文晁や大田南畝などの文化人とも交流があったとされています。
彼の作品は、東京国立博物館など多くの博物館や美術館に収蔵されています。五島美術館で開催された展覧会では、蒔絵茶箱、印籠、根付、蒔絵櫛など、多彩な作品が展示されました。
代表作には『桜紅葉蒔絵重香合』『蔓梅擬目白蒔絵軸盆』『梅木蒔絵印籠』などがあります。
デビッド・タトウィラーは、伝統的なアメリカの風景画や海岸沿いを主に描く画家で、蒸気時代の鉄道画家の第一人者としても知られています。
また、公認アーティストとして、ディズニー関連の作品を描くことでも有名です。
代表作には『Sharing a dream』という、ミッキーマウスとウォルトディズニーが手を繋いでいる、ディズニーファン必見の作品があります。
他にも、ノスタルジックな画風で描かれた風景画や機関車の作品は、今でもなお多くの人に親しまれています。
活躍は広範囲に展開しており、アメリカアカデミーを卒業後、数々の賞を受賞し、アメリカ国内において数多くの展示会に出展しました。
鶴田憲次は長崎県佐世保市出身の画家です。
京都市立芸術大学西洋画科専攻科 (現在の大学院)に在学中の頃から、国内だけに留まらず、海外でも精力的に展覧会を行っていました。
1973 年から約40年間にわたり京都市立芸術大学油画専攻で教鞭を執り、1990年には文科省在外研修員に、2014年には京都市立芸術大学名誉教授に就任と、美術一筋で人材の育成と絵画の発展に貢献してきました。
圧巻と言えるほど繊細さを追求した、美麗で写実的な作風が特徴的です。
実際に作品の前に立つと、自然ある風景が額からはみ出して目の前に広がり続けているかのようです。生きた自然が映し出される、映像さながらのリアリティさこそ、彼の作品の魅力だと言えます。
楽道入は江戸時代初期の京都の陶工で、三代目楽吉左衛門家当主です。
楽焼でも屈指の陶工として知られます。本名は吉左衛門、通称「ノンコウ」。独特の艶やかな黒楽釉や明るい赤楽釉を用い、薄作りで大振りな茶碗を制作しました。
代表的な作品には、「獅子」「升」「千鳥」などがあり、これらは「ノンコウ七種」として知られています。
道入は、茶人・芸術家である本阿弥光悦と親しく、彼との交流を通じて楽焼をさらに発展させました。楽焼は、後の時代における日本の陶芸に大きな影響を与え、特に茶道の道具としての地位を確立しました。
彼の作風は、現在も多くの陶芸家や茶道愛好者によって受け継がれており、日本の伝統的な陶芸文化の重要な一部分を担っています。
藤崎 秀胤(フジサキ シュウイン)は、富山県の南砺市出身の彫刻家です。
1959年に彫刻家である父 秀一のもとに生まれ、父親から直々に彫刻を学びます。20歳頃から仏像の制作を行い、30歳を過ぎた頃には寺院に木彫り仏像の納入も行うなど、彫刻家として実力を付けていきます。
そして2010年には、井波の彫刻伝統工芸士に認定されるほどの腕前となります。
井波彫刻は250年以上続く彫刻文化で、日光東照宮などの神社仏閣の彫刻を請け負っているという歴史を持つほどの、熟練の彫刻家たちが技術を継承し続けている文化です。
その技術を受け継いできた彫刻家たちは現在、日展などに作品を出品するなどの幅広い活躍が見せています。
井波彫刻の作品で高い評価を受けやすいお品物としましては、やはり有名作家の作品が人気となります。
有名どころで言えば、横山一夢や川原啓秀の繊細で非常に細かい作品は特に人気です。
また、作風の傾向としては、木造の仏像や獅子などの置物の類が評価を得やすい傾向にあると言えます。
藤崎秀胤の作品では他にも、童不動等のブロンズ作品も人気が高いお品物となっております。
木 内克は、茨城県水戸市出身の彫刻家です。
1892年の6月、代々医者の家系に生まれますが、彼は医師への道ではなく絵の道へと歩みを進めることとなります。
幼い頃から絵が好きだったこともあり、20歳の時に大学を中退して上京、明治時代に活躍した彫刻家・海野美盛の元で彫刻を学びます。
その後、朝倉文夫の彫塑塾に入門し、24歳の時に第10回文展にて初入選、それ以降も何度か入選を果たしました。
29歳の時に留学で欧州を訪れます。その後、ロンドンからパリへと移り、パリの研究所で彫刻を極めていきます。
欧州滞在中には、ギリシャのアルカイック彫刻に傾倒し、自身でテラコッタの技法を修得します。
そして帰国後、その修得した技法を用い、仁科展に数々の作品を出展・受賞しました。
戦後においては、再度欧州に行きブロンズの制作技術までをも会得します。
晩年には大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけ、生涯、個性あふれる数々の作品を世に残していきました。
作風としては、エネルギッシュさと豊かな表現が組み合わされ、そこへ生まれたどこか温かみを感じられる風情が特徴的だと言えます。