辻常陸とは佐賀県有田に窯を構える辻家の現当主が襲名した名で、当代は15代目に当たります。辻家の歴史は長く400年以上続く名門です。3代喜右エ門の時代に仙台藩主伊達綱宗によって皇室に献上された陶磁器が認められ皇室御用達となりました。その後も代々御用達となり世襲制となった15代辻常陸の現代でも宮内庁御用達として拝命しています。
この長い辻家の中で発明された焼成法の中に極真焼というものがあります。これは8代当主辻喜平次が研究の末完成させた焼成法で、製品と同質の磁土で匣鉢(さや)を作り、その中に本来の製品を入れ蓋をします、蓋の接触部分と内側に釉薬を施し焼成します。そうすることで匣鉢の中が真空になり空気の対流がなくなり深い呉須の発色と気品のある光沢が生まれます。これが極真焼です。
しかしながら極真焼は毎回製品と匣鉢を作り、焼成後に匣鉢を割る為ものすごい手間がかかってしまいます、そのことから長らく封印されていた製法でもあります。この製法の封印を解き現代によみがえらせたのが14代辻常陸になります。
中村 元風(なかむら がんぷう)1955年(昭和30年)9月2日~現在、日本の陶芸家、科学者になります。今九谷窯アーティストとして活動、「芸術とは輝きの創出である」との信条のもと、光や色から構成される「輝き」を一貫したテーマを据え、アートとサイエンスの両面で追及し続けている。また、自身の研修開発により生み出した独自素材を用いて作品制作を行っております。当初祖父の中村翠垣(県指定無形文化財、日展参与)に師事してたが、祖父亡き後は、3代徳田八十吉に師事しておりました。
佐々木象堂は1960年に「蝋型鋳造」にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された金工師です。
1884年に新潟県に生まれた佐々木象堂(本名は文蔵)は、貧しい家庭で育った為高校に通いながら商家に奉公しておりました。画家を目指して上京しますが、極度の近眼であった為画家になることは断念しましたが、鋳造なら可能なのではないかと考えた佐々木象堂は初代・宮田藍堂に師事します。
宮田藍堂に師事して芸術家としての技術を身に着けていった佐々木象堂は、6年間の修行を経て独立することを認めてもらえるようになります。その後は1913年に日本美術協会展にて銅賞を受賞したことを皮切りに数々の賞を受賞していきます。中でも「鋳銀孔雀香炉」や「金銅鳳凰置物」は帝展に出品をすると両作品とも特選を受賞したことにより更に佐々木象堂の名は有名になっていきました。
戦時中には金属の調達が難しかったこともあり、陶芸にも打ち込み真野焼窯を創設し、子弟とともに陶芸にも打ち込んでいたとのことです。戦後は再び、鋳金家としての活動を再開し、数々の名作を残したことなどの功績を残した佐々木象堂の作品は人気の高い物となっております。
秋山逸生は1987年に「木象嵌」にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された東京都出身の木竹工芸家です。木象嵌とは様々な天然の木材を用いて絵画や図柄を表現する木画技術となります。起源は古代オリエント文明にまで遡るとされており、およそ3000年から4000年もの歴史のある世界的な技術です。
制作技法は3種類に分けられ、ノミや小刀を使用して図案を彫り込み、彫り込んだところに異なる木材をはめ込む彫刻象嵌、厚さ1㎝に重ねた板に模様を描き、ミシン鋸にて切断した上部の木材を下部の木材にはめ込む重ね式象嵌、はめ込む材をミシン鋸で切り抜き、台板となる木材へその切り抜いた木材をはめ込む技法を挽き抜き象嵌といい、この挽き抜き象嵌は世界的にも例がない珍しい技法であり、小田原地方が唯一の技術保有地として重宝されているとのことです。
秋山逸生はこの木象嵌にて数々の作品を制作しており、リズム感のある幾何学てきな模様を用いていることが特徴的であるといえます。作品には欅、黒壇、紫壇を用いて主に箱を制作しており、そのモダンで明快な作風は多くの人々を魅了してきたことに違いないでしょう。
齋田 梅亭(さいた ばいてい)1900年(明治33年)4月6日~1981年(昭和56年)6月1日は、日本の截金師になります。京都市下京区で西本願寺御用の截金師の家に生まれになります。京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒場し、百貨店や呉服専門店でデザインの仕事に従事した後、25歳頃より家業である截金を始めました。截金を工芸品として屏風、額、衝立、茶入れや飾り箱に応用し、東京赤坂の迎賓館へ四曲一双屏風「霞文」を納入するなど工芸分野としての基盤を築いた人物になります。特に屏風や額などの平面の作品に截金を施す際に、海の中に生息する魚や海草、薄の穂、牡丹・紫陽花・菊・椿の華を写実的に表現したという点において、作風が際立っております。
19002年4月14日~1968年8月21日、日本の刀匠で、愛媛県出身。重要無形文化財保持者になります。1919年東京の中央党見解養成工となり、以後大正年間より古刀の作風を研究し、五ヶ伝に精通しました。1936年故郷松山に鍛錬場を開きます。翌々1938年には第一回刀剣展にて内閣総理大臣賞を受賞し、1940年には鎌倉八幡宮の御宝御神刀を鍛えております。戦後は刀剣保存運動に尽力し、皇室関連の作刀を多数行いました。1951年に伊勢神宮式年遷宮の御宝御神刀を鍛える。4年後の1955年のこれらの活動と成果評価され、人間国宝に認定されました。刀匠としては初の、愛媛県出身者では今日にいたるまで唯一の人間国宝になります。刀匠からの人間国宝にはのちに、悠仁親王の守り刀を製作した天田昭次らが出ております。受賞後の1959年、皇太子明仁親王(現・仁上皇)成婚に際して皇太子妃美智子(現・上皇后美智子)の守り刀を鍛える。その後1965年の礼宮文人親王(現・秋篠宮)に至るまで、皇太子妃所生の皇男子の守り刀を鍛え続けました。