高村豊周は日本の鋳金家であり、彫刻家の高村 光雲の三男として明治23年(1890年)7月1日に東京で誕生しました。
鋳金(ちゅうきん)とは、溶解した金属を鋳型に流し込み、冷却してから取り出し、表面を研磨などで仕上げる技術のことを指します。18歳で津田信夫の門下に入り、大正4年(1915年)3月に東京美術学校鋳造科本科を卒業しました。在学中、「実在工芸美術界」などのグループを組織し、これらの活動を通じて長年にわたって工芸の近代運動に没頭しました。伝統的な技法を駆使し、業界の大御所的存在でありながら、鋳金家協会長も務めました。特に晩年の回転体による円壷の成形は、他に類を見ない卓越した技術を発揮し、まさに日本を代表する鋳金家の一人と言っても過言ではないでしょう。
また、銀座の4丁目交差点にある「和光」の名付け親でもあります。1972年、肺炎のため東京都文京区の自宅で死去しました。
亀文堂(きぶんどう)とは滋賀県の湖東で主に鉄瓶を製造していた鉄瓶屋です。波多野正平によって創業されました。昭和20年代まで4代に亘って引き継がれていましたが、高級な鉄瓶の需要がなくなってきたことにより、終わりをつげます。
正平は弟の秦蔵六と共に京都の龍文堂の2代目・四方安之助に師事します。蝋型鋳造を学び、のちに滋賀の東近江に移り住み、亀文堂を創設しました。最初は文房具や銅器なども作っておりましたが、幕末から昭和にかけて鉄瓶が一般家庭にも使われるようになってから、鉄瓶制作に力を入れます。そして自然をモチーフとした浮彫の鉄瓶が高い評価を受け、亀文堂の鉄瓶が広く知られるようになりました。初代の亀文堂正平の作品がやはり一番有名ではありますが、三代目亀文堂・安次郎は鉄瓶だけではなく、花器や香炉などの作品も多かったとされています。戦争などによって、鉄瓶の需要がなくなり、4代で終わてしまった亀文堂ですが、その高級な美術品としても見られる鉄瓶は今でも国内外で高い評価を受けています。
1558年~1637年 本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)は、江戸時代初期に活躍した、書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人等多岐にわたり活躍した方になります。生まれは、刀剣の鑑定を家業にする家元の長男として誕生し刀剣も触れていると考えられておりましたが、現存している資料を見ると、刀剣に触れてたものがほとんどなく、光悦は陶芸、漆芸、出版、茶の湯等マルチアーティストとして、京では「寛永の三筆」の一人として称されておりました。マルチに活躍した光悦は、後に京都市北区にある芸術村(光悦村)を残したことでも知られており、光悦の死後、お墓も日蓮宗の寺(光悦寺)にございます。日本の芸術や工芸に大きく貢献したことにより平成12年京都府は、産業やモノづくりのあり方を示す新しいスタイルとして京都府南丹市園部町に「京都新光悦村」及び「道の駅京都新光悦村」を整備致しました。
与謝蕪村は松尾芭蕉・小林一茶と並び江戸時代における三大俳人に選ばれている俳人です。
与謝蕪村は摂津国(現大阪府)で生まれ、20代の頃に江戸に下り俳諧を学びます。27の頃に俳諧の師が亡くなり下総国(現茨城県)に住みますが、松尾芭蕉の各地を回る行脚生活に憧れて、僧の姿に身を変え東北地方周遊しました。宿代の代わりに絵を置いていく与謝蕪村の修行の旅の始まりです。
42歳の時に京都に居を構え45歳には結婚し娘を授かりますが、51歳の頃に妻と娘を残し、隠岐に赴き多くの作品を残しています。その後は京都に戻り生涯を京都で過ごしました。
与謝蕪村の功績として挙げられるのが俳画です。俳句に絵を入れたもので、俳句と絵に秀でていた与謝蕪村が確立した独自のジャンルになります。有名なものですと「奥の細道図巻」があります。これは松尾芭蕉の奥の細道を書き写し、そこに挿絵を入れた作品です、こちらは重要文化財に認定されています。
画家としての活躍も素晴らしく、1771年に池大雅と合作した文人画「十便十宜帖」は重要文化財に指定されています。この功績も踏まえ、池大雅と共に日本文人画家の祖とも呼ばれています。
物語の中の世界のような穏やかな色彩で描かれるヨーロッパの街並み風景。「旅への誘い」をテーマに描いてきた洋画家・井口由多可の作品は、その穏やかな風景描写と澄んだ空気感に心が惹きつけられ、自分もこの世界に行きたい、と強く感じさせてくれる魅力が詰まっています。
1947年九州に生まれ大学は慶應義塾大学の法学部を卒業。その後は船会社に勤務しますが、多忙により体を壊してしまいます。そんなときに趣味として独学で始めたのが絵画でした。24歳の頃会社を辞め画業に打ち込むようになり、1975年28歳にして第4回現代洋画精鋭選抜展にて入選を果たします。これがきっかけとなり2年後の同展では金賞を受賞。フランス芸術家協会主催のル・サロンで名誉賞を受賞するなど、その作品が高く評価されるようになりました。
現在は全国各地の百貨店などで個展を開催する一方、自身が会長を務める旭美術協会にて後進の育成にも力を入れています。
2015年に画業40年を迎えましたが、いまだ向上心に溢れ、新たな作品に向けて研究を続けているとのことです。
1853年10月24日~1923年8月7日 白山 松哉(しろやま しょうさい)は、明治から大正にかけて活躍した漆芸家になります。東京出身で、若い頃より小林好山や蒲生盛和の門下になり、蒔絵や螺鈿、堆朱等を学びました。その後、明治初頭日本の美術品や物産品を世界へ輸出していた、日本の貿易会社「起立工商会社」に勤務し、漆芸の製作に携わった。1905年に転職し東京芸術大学にて教鞭を執りました。松哉の作風は「研ぎ出し蒔絵」と呼ばれ、極めて類もない緻密な作品でした。その高い技術が認められ、1881年に開催された内国勧業博覧会や1900年に開催されたパリ万博では、それぞれ名誉賞を受賞し海外でも有名な漆芸家となりました。1906年に帝室技芸員や農展の審査員に採用されました。