濱田昇児は、大阪府出身の日本画家です。
日本画壇の重鎮である濱田観のもとに生まれた昇児は、父に日本画の基礎を教わります。その後、近現代日本画の巨匠・小野竹喬に師事し、絵画の研鑽に励みました。
1945年、京都市立美術専門学校日本画科に入学します。それと同時に、独立美術研究所にも通い、洋画家の須田国太郎にデッサンを教わります。油絵についても技量を高めていた昇児は、1950年に油絵で独立展に初入選を果たします。その後も入選を重ねますが、二年後からは日本画、それも風景画に絞って活動をするようになりました。
風景画を志したのは師・小野竹喬の影響によるところも大きいですが、その作風は昇児ならではのものと言えます。湖畔や山麗の風景を写実的に切り取り、大自然の幽玄さから清廉を投げかけてくるような、魅力的な空気感を持った絵画が特徴です。
今でも高い評価を受けており二次流通量も比較的少ない作家となります。
日本画を好む方であればその魅力に引き込まれるでしょう。
薩摩びーどろ工芸株式会社は、鹿児島県に本社を置く、薩摩切子作品を強みとしたガラス細工工房です。
薩摩切子とは、江戸末期に薩摩藩で造られた切子ガラスです。無色のガラス(クリアガラス)の上に色つきのガラスを被せ、それを磨き上げて作られます。色つきのガラスの色彩が淡いためにできる、クリアガラスとの間のグラデーションが薩摩切子の特徴です。
薩摩びーどろ工芸は1994年の設立以後、途絶えていた薩摩切子の復元・発色に注力してきました。
金赤・瑠璃・藍色に始まり、緑色・黄色・金紫・銅赤・飴色の復元に成功し、さらには黒色・茶色という新色の発色にも成功しています。伝統と独創性を併せ持った、今なお進化している切子工房です。
一つ一つがガラス生地から職人の手で作られており、そのカットデザインと緻密な造形、そして発色はどの角度から見ても美しく映えます。
作品は猪口、グラスに始まり花入や盃、角皿、ワイングラスなど多岐に制作されています。実際の使用はもちろん、飾って見るだけでも楽しめる逸品の数々です。
小西陶古さんは、備前焼の陶芸家、窯元です。
代々陶芸作家の家系で、明治初期の細工の名工と云われた永見陶楽の孫にあたる初代小西陶古さんが窯元を設立致しました。
初代はそれまで偶然に作られていた「桟切(サンギリ)」という模様を人工的に作り出す方法を考案しました。桟切とは、備前焼の焼き方の一つです。備前焼は釉薬などを使用せず、土本来の色合いと窯の温度、窯入れの際に入れた藁などによって「胡麻」「火襷(ひだすき)」「牡丹餅」などの様々な色や模様が作られます。その中で桟切は、燃え尽きた灰が作品の一部を覆い、その部分が黒く、火があたる部分が赤く、その境目が灰青色になる模様のことを言い、味わい深い美しさを生み出しています。
二代小西陶古さんは初代の二女で、伊部で一番大きい古来伝統のランマ窯を利用していました。
現在は初代の孫にあたる小西陶藏さんが窯を受け継ぎ、窯元作品を監修する一方でご自身も新たな作陶に尽力されております。作られる作品は茶道具や干支の置物、日用食器に至るまで幅広く、繊細な作り込みと丁寧な仕上げは高く評価され、その功績は備前市指定無形文化財保持者に認定されるほど広く多くの方から支持されております。
クロード・ワイズバッシュはフランスの洋画家です。
1927年。ワイズバッシュは、フランスのティオンビルに生まれました。その後、ナンシー美術学校に学び、版画技術を習得します。1957年には、絵画や版画などを展示した自身初の個展を開催します。この個展を契機に、国際的な評価を受けることとなります。
その後もヨーロッパをはじめとした各地の版画展や絵画展に出品するなど精力的に活動し、高い評価を得るとともに、サント・エチェンヌ国立美術大学で教鞭をとるなど、知識人としても活躍していました。
ワイズバッシュといえば、音楽をモチーフとした作品が印象的です。
ヴァイオリニストやチェリストなどの音楽家が、セピア色を基調としながら鋭い線で動的に表現されているのが特徴です。ヴェートーベンやモーツァルトを愛した彼の感性と情熱が魅力となり、作品に表れているようです。
ワイズバッシュの作品は、パリ市立近代美術館をはじめとした世界各地の美術館に所蔵されています。
高畠達四郎は、大正から昭和期にかけて活躍した油彩画家です。
1895年、達四郎は、東京で生まれました。
1914年に慶応義塾大学理財科(現・経済学部)に入学しますが、画家志望が強まり、二年後に中退。本郷洋画研究所に入社し、本格的に画家の道を進み始めます。
帝展に出品し、入選を掴んだ後の1921年、活動をフランスに移します。7年間の滞仏生活の中でエコール・ド・パリの影響を受けると、帰国した後、国画会にフランスで創作した作品などを含む多くの作品を発表しました。
ですが1930年になると、児島善三郎、林武、中山巍らとともに独立美術協会を創立し、以後、独立展を中心に作品を発表するようになりました。
達四郎の作品は、風景をモチーフとしたものが多いです。暗褐色を基調とし、素朴ながらも詩情豊かに、国内外の風景を描き続けました。静物画的なあるがままの風景の描画が人々の心を掴み、風景画の巨匠として画壇に名を残しています。
池田修三は、秋田県出身の木版画家です。
1922年に秋田県のにかほ市に生まれ、旧東京師範学校学校(現・筑波大学)を卒業後、秋田県の高校の美術教諭となります。その後たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻に作品が評価され画家を志すことを決意。教員を辞職し33歳で上京し版画家として活動していきます。
日本版画協会展や現代版画コンクール展などで入賞をし少しずつ評価されていきます。40歳を迎える頃にはモノクロ版画ではなく多色刷りに移行し、子供をテーマにした儚げでかわいらしい作品を作り、池田修三らしい作品として確立させました。
しかし池田修三が作り上げるセンチメンタリズムな作風は評価されず、多くの作家に酷評される結果でした。そんな評価を受けた池田修三ですが、特に気にすることなく「竹久夢二を評価したのも後世だった」と語っていました。
以降も池田修三は作風やテーマを変えることなく一貫して子供をモチーフにした作品を作り続けました。
その後は地方のカレンダーや広報誌や販促品などに版画が利用されるようになり、知名度を少しづつ上げていき全国の主要都市で個展を開くまでになりますが、2004年に82歳で亡くなってしまいました。
晩年に地元の秋田や地方において知名度は高まってはいましたが、生前に正当な評価を受けていたとは言い難く、隠れた天才として亡くなってしましました。
池田修三の死後、秋田で2012年から作り始めた季刊誌「のんびり」に、池田修三の特集を組まれたことをきっかけに、再評価され作品集の出版などが行われるようになりました。池田修三自身が言っていたように、竹久夢二のように自身の死後に高い評価がされるようになりました。