大淵 光則は富山県出身の金工作家です。非常に細かい部分まで表現された作品が多く、発表のたびに驚嘆の渦を巻き起こしてきました。
大淵光則は1932年に富山県に生まれます。1948年に金工業界の名門である早川徳太郎氏に師事し、徐々に頭角を現していきます。1970年には、より銀器工芸の知識を深めるためにイタリアに渡ります。その5年後に、第1回東京銀器新作コンクールにて最高賞である「東京都知事賞」を受賞しました。1979年には第5回日宝連全国統一創作品コンクールにて最高賞である「内閣総理大臣賞」を受賞しました。1980年には世界最大のプラチナ製のヴィーナス像や、プラチナ純金製の名古屋城の製作を行い、翌年の第7回東京都銀器新作コンクールにて「東京都知事賞」を受賞、さらに第6回プラチナデザインコンテストにて「プラチナギルド賞」を受賞しました。数多くの作品が認められた事により、第125代天皇陛下御即位の礼記念「純銀貨 祥鶴」、皇太子御結婚記念「純銀製 双祥鶴」の製作を任されました。1998年には新技法や開発研究を行い、数多くの新作を発表しました。
伝統と文化を継承し、銀器業界の発展と伝統工芸品の魅力を世の中にもっと知ってほしいという思いから、2019年にブランド「光則」を立ち上げました。工房では数十人の職人の方々が先代のものづくりに対する姿勢を受け継ぎ、新たな価値を見出す為に日々制作に取り組まれております。
服部峻昇は京都を代表する漆芸家です。
1943年の京都に生まれ、高校の美術工芸漆芸科にて漆芸を学びました。
1964年には塗師の上原清に師事し、翌年には漆芸家の浦省吾に師事しています。工芸展などで数々の賞を受賞しながらヨーロッパ、アメリカ、中国、韓国などを渡り技を磨いてきました。また、1970年から1978年までは京都の若手漆芸家グループ「フォルメ」に参加し、同人活動を行っておりました。
80年代ごろまではパネルなどを使った平面的な作品を中心に制作していましたが、その後は飾り棚や飾箱の制作に傾倒していきます。服部峻昇の代表的な特徴ともいえる、螺鈿(耀貝)の光彩を活かした作品もこの頃から制作の中心となっています。
2004年からは玉虫の翅を作品に取り入れ、晩年にして新たな装飾表現を開拓しました。
美しい作品を作り上げる為、自ら材料を厳選していた服部峻昇。国産の漆をはじめ、扱う材料はどれも希少な天然素材ばかりです。天然素材故に色味や形の厳選に労を要しますが、自然にしか映し出せない虹光の美しさに人々は目を奪われることでしょう。
初代 清風 与平
清風 与平は江戸から続く京焼有名な陶芸一家です。初代清風与平は京焼で有名仁阿弥道八(2代高橋道八)に師事したと言われており、染付(青華)、白磁、色絵、乾山を非常に得意としておりました。文政初年に道八の命により、桃山の三夜莊に窯を築き楽焼を制作し始めました。1827年頃には五条橋東に開窯し、染付、白磁、色絵など様々な陶器の制作を行いました。1847年には備前岡山藩筆頭家老である伊木忠澄に招かれ、虫明焼の指導を行いまいした。1861年59歳でお亡くなりになりました。
二代 清風 与平
1845年初代 清風与平の子として生まれました。家業を手伝いながら技法を学び、種磁器の制作を行いました。のちに染付の名手と呼べれるようになり、新たに白磁浮文の制作を行いました。1873年に京都府歓業御用係となりましたが、5年後に34歳という若さでお亡くなりになりました。
三代 清風 与平
二代 清風 与平に憧れ入門をしました。与平の妹と結婚をし、のちに三代を継ぎました。釉薬の工夫を施し和モダンな作品の制作を行いました。様々な色に発色する釉薬を国産の材料だけで作り出すことは、当時の技術では相当難しかったと言われております。1893年に陶芸界最初の「帝室技芸員」となりました。この「帝室技芸員」とは、今でいう「人間国宝」のような立場であり、陶芸界からは約60年の歴史の中で5人しか選ばれておりません。「人間国宝」に選ばれた陶芸家は64年間で30名以上いることと比べると、「帝室技芸員」になることがいかに難しかったか想像できます。
四代 清風 与平
1871年に三代与平の次男として生まれました。父から技法を学び、日本画の技法を田能村小斎に師事しました。父の没に伴い四代 清風 与平を襲名しました。色鮮やかな釉薬を使い、数多くの名品を世に生み出しました。1951年にお亡くなりになりました。
ドームナンシー(ドーム社)はフランスのナンシーに現存するガラスメーカーの一つです。
1878年にジャン・ドームがラ・サント・カトリーヌ・ガラス工場の経営をすることになり、後に「ラ・ヴェルリ・ド・ナンシー」としてガラス工場の操業を開始した事から始まり、長男のオーギュスト・ドームと次男のアントナン・ドームが1891年新たに装飾工芸ガラスを制作する美術工房アトリエ・ダールを設けたことにより、その名を広めて行きました。
工房名にDaum Frèresと付けていた事などもあり、通称「ドーム兄弟」と言われています。
兄のオーギュストは1879年頃、弟のアントナンは1887年頃からそれぞれ父のガラス工場を手伝うようになり、1889年のパリ万博博覧会にテーブルウェアなどを出品しました。その後1894年のリヨン博覧会で金賞を受賞。1899年にはガラス素地に絵模様を描き、さらにガラスをかぶせて模様に奥行きを出すアンテルカレールという技術で特許を取得し、1900年のパリ万国博覧会ではグランプリを受賞しています。
初期の作品にはエナメル色彩による絵付けが多く見られましたが、1910年前後辺りから色ガラスの粉を再加熱して素地になじませるヴィトリフィカシオンという技法も使い、マーブル模様など表現する色の世界の深みや幅を広げていきました。
個人の才能を発揮した作品を中心としているエミール・ガレに対し、才能豊かな装飾美術家たちをデザイナーとして登用し運営していたドーム兄弟。創業者のドーム一族による経営は途絶えていますが、ドーム社の作品は仕上げの丁寧さに定評があり、この140年間にコラボレーションしたアーティストたちは350人以上に及びます。
そして現在もナンシーの地で高級クリスタルメーカーとして操業を続けています。
高橋草坪は日本の文人画家です。
文化元年頃に現在の大分県杵築市の商家・槇屋(高橋氏)休平の次男として生まれました。
本名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎と言い、草坪はその号で、他に草坪寒民、草坪間人、草坪逸人などと号しました。
幼いころから絵に興味があり画才を現わしていた草坪は同郷の長谷部柳園に画を学びましたが、文政5年に田能村竹田が杵築を訪れたのを機に竹田に入門。その後竹田に画才を認められ、文政6年頃には竹田に従って初めての京遊に出ました。
そして竹田の友人である菅茶山、頼山陽、雲華上人、浦上春琴岡、田半江ら錚々たる文人と接して学問や作画の指導を受ける中で草坪の画技は一気に深まり、竹田の教え通りに世俗的な画風に染まることなく、勢力的に画技の追究を続けて行きました。
文人画家として名声も高まりますが、天保6年頃(所説あり)病により夭折しました。著書に家屋と人物描法のみを整理した『撫古画式』があります。
十三代 徳翁宗守 有隣斎は武者小路千家十三世家元です。
名は宗守、号は有隣斎・徳翁・宗安などで、聴松宗守に師事しています。
1913年に生まれ、第三高等学校をへて京都帝国大学文学部に進み国史学を専攻し、卒業後も大学院で日本文化史の研究に当たりました。
卒業後に武者小路千家12代聴松宗守(愈好斎)の娘千澄子と結婚、12代聴松宗守には息子がいなかった為婿養子となり、53年に13世宗守を襲名しています。
大学で学んだ知識を活かし、51歳で国内初となる茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校、翌年には財団法人官休庵を設立させます。
大学での経験や学力、知識を持ち、茶儀に自らの学識を活かすなど聴松宗守と同じく学究肌の茶匠でした。
1983年の秋、古稀を境に徳翁の号を受け、1989年76歳の時に家督を長男に譲り、自身は宗安の号を襲名し隠居しました。
自分の意見を曲げず常に高みを目指し続け、茶道界において大変貴重な存在でありましたが86歳で逝去。著書に「利休とその道統」「新修茶道妙境」「茶花十講」などがあります。