山下甫斎は、1944年、石川県生まれの塗師です。
父の山下清峰より漆芸技法を学び、1978年に2代目山下甫斎を襲名しました。
山下甫斎の作る作品は、造形的な魅力だけでなく、侘びを感じさせるような美しい仕上がりに多くの茶人が魅了されています。
塗師として高い評価を得ていた父の山下清峰より、幼少の頃から塗師としての技術を学び実力を伸ばしていました。
そして驚くべきところは、下地や蒔絵などの技法は独学で習得しており、独自の技法でありながら新しさや古さを感じさせない伝統的な美しさを表現しており、それでいて現代風な作品作りを展開しております。
作品を手掛ける上でのこだわり、飽くなき探求心は作家というより職人と評されるほどであり、展覧会や個展には出品せずに制作活動を行っております。
そんな山下甫斎の代表作は、「雲龍蒔絵大棗」、「波車蒔絵大棗」などです。
今後、骨董業界において注目されていく人物であることは間違いないでしょう。
柴崎重行は北海道八雲町にて、埼玉県からの移住二世として誕生しました。
現代では北海道の名産となった木彫りの熊ですが、柴崎重行はその先駆け的存在となった巨匠です。
今から約100年前、旧尾張藩からの移住が多かった八雲町はとても貧しい村でした。その時に、当時の尾張徳川家当主、徳川義親が八雲町を訪れ、村民の生活を改善するために木彫りの熊の生産を試みたことがきっかけで、現在の木彫り熊の名産品が生まれました。
柴崎重行も木彫り熊の製作に勤しみ、多くの作品を手掛けていきました。
当時の木彫り熊は現代のようなリアルな姿ではなく、毛並みなどを彫らない「抽象熊」と呼ばれるものでした。そして、それらは主に芸術品ではなくお土産品として販売され、八雲町の人々の収入源となっていました。
その中で、木彫り熊をお土産品ではなく芸術品に高めていったのが柴崎重行です。
柴崎が作る熊は手斧で割った面を主として掘り進める「ハツリ彫」という技法で作られ、その技術の高さに人々を驚かせました。
また、昭和初期に発足した八雲農民美術研究会では指導的立場として活躍され、木彫り熊そのものの芸術性を高めていきました。
柴崎が作る独特な愛くるしさのある熊は瞬く間に人気となり、1970年代には北海道を飛び出し東京で展覧会に出品するなど多くの方から注目を集めました。
現代では時代の変化とともにリアルな木彫り熊が名産品として制作されており、抽象熊を目にする機会はほとんどありません。
その為、抽象熊の木彫りは「幻の熊」と呼ばれています。
しかしその芸術性の高さから現代は大きく見直されることが増え、骨董業界だけでなくクリエイターなども含め徐々に人気を高めていっています。
金谷五郎三郎さんは、京都を代表する錺鋳物師で、代々同名を世襲しております。
茶道具や花器の製作において知られ、近年では装身具や建築装飾等の分野も手がけるなど、伝統の技に新たな活用を見出しています。
作品の特徴は、銀や銅、鉄などで作られた作品に「五郎三色」という独自の金属着色法によって特徴的な風合いを生み出すところです。そして、この技法は父子相伝の秘宝として古くから今においても受け継がれ続けています。
初代の金屋五郎三郎さんは400年ほど前に遡ります。
屋号を「金屋」と称して銅器着色法を工夫し、純銅を高度の熱で鮮やかな緋色に変化させた緋銅色は特に称賛を博して「五良三色」と謳われるようになりました。
また、豊臣秀吉に命ぜられて茶道用火鉢を「五良三色」で造ったところ、大いに賞美を受けて比類ない誉を得ております。
以後、この技術は代々の秘伝として伝えられるようになりました。
現在の屋号は「金谷」となっており、当代は16代まで続いております。
金谷五郎三郎は代々多くの優れた作品を残しており、煎茶道具から茶道具、また骨董品から箱物まで、多くの作品が残されております。
鍛金や鋳金、彫金などの伝統的な金属工芸技法は現在でも大変人気であり、特にアジアをはじめとした世界中で高い評価を受けております。
村田 省蔵は、1929年石川県金沢市の生糸問屋の5男として生まれました。1944年に滋賀航空隊に入隊するが、1945年に終戦を向かえ中学に復学するという経歴を持っています。
復学後に第1回現代美術展にて宮本三郎の作品に惹かれ絵描きを志すようになりました。
金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)の第1期生として、宮本三郎の指導を受け、在学中に光風会や日展に出品し初入選しました。美術学校を卒業後は上京し小絲源太郎に師事しました。東京都保谷市にアトリエを構え、周辺風景などを描き腕を磨きました。
学生時代は婦人画を描いており、卓抜した描写力が高い評価を得ていました。小絲源太郎に師事してからは深い色彩について学び、上京後の作品は、描写力と深い色彩を武器として風景画を描きました。そんな日本の原風景を大事とする作品には、美しい自然と、近代的な発展によって失われた自然の風景の両方を描き、自己の想いをぶつけているようにも感じることができます。
美しい自然作品を代表とするのは北海道を題材にした作品で、黄や緑を使い豊かな自然を得意の深い色彩で表していてます。失われていく自然は、新潟の稲架木(はさぎ)を描いた作品だと言えるでしょう。一本一本丁寧に描く稲架木にそれぞれの喜怒哀楽が込められてるかのような哀愁を感じます。
このような自然美を題材にした作品は高い評価を得て、日展にて総理大臣賞と恩賜賞・日本藝術院賞受賞する結果をもたらしました。2000年には地元で母校でもある金沢美術工芸専門学校の教授となり、後身の育成にあたりました。
浮田 克躬(うきた かつみ)
東京都出身の画家になります。小学時代は、集団生活になじめず不登校となり、専ら好きな絵を書いていたそうです。
もともと、絵は好きでしたが1934年に第1回聖戦美術展をみて本格的に画家を志します。
浮田さんは、東京美術学校に在学中、安井曽太郎さんの教室に在籍し師事しておりました。1950年に同行を卒業の年に新制作派教会第4回展に初入選致します。その4年後、田崎廣助さんに師事。
1979年ブラジルの風景画を、自己の写実表現を用いて制作したことが称され、ブラジル政府よりコメンダドール・オフィシャル章を受章。
主に北海道やヨーロッパの風景を主題に制作活動を行っておりました。1989年心筋梗塞の為死去致しました。
皆様、こんにちは!緑和堂でございます。
今回は、伊万里焼と有田焼についてご説明させていただきます。
現代においての「伊万里焼」は佐賀県伊万里市で生産される焼き物であり、「有田焼」とは佐賀県有田町で生産される焼き物のことを指します。
そのルーツは元々1つであり、1610年代に肥前国有田で日本最初の磁器製作が開始されたことに由来します。生産は有田ですが、製品の積み出し港が伊万里であったために「伊万里焼」という名が浸透しました。
日本の磁器製作の歴史は、豊臣秀吉が朝鮮出兵で多くの朝鮮人陶工を連れて帰ってきたことがきっかけです。それまでの日本は陶器の製作が行われてはいたものの、磁器は中国からの輸入品のみでした。
有田で磁器の原料となる陶石が朝鮮人陶工により発見され、そこから磁器の製作が日本で開始されました。当初の磁器は乳白色の下地に青の染付を施した作品が主であり、日本人陶工たちは中国作品を模倣するあまり漢字が読めないのに真似た字を書いたり、焼き方が不十分で歪んでしまった作品が多く見受けられます。この頃の日本磁器創成期とも呼べる作品を「初期伊万里」と言います。
やがて技術が研究され進化し、1640年頃に青以外の色を配した色絵磁器の生産が行われ始めました。初期の色絵磁器の技法で生産された磁器を「九谷焼」と呼びます。また、将軍家や大名などへの贈答品として豪華な絵柄を売りとした「鍋島焼」や、1670年代に地肌の余白を残した絵画的要素のある絵柄の「柿右衛門様式」などが誕生し、色絵磁器の人気は高まっていきました。
一方で、素朴で粗さの残る「初期伊万里」は次第に市場から消え去ってしまいました。
色絵磁器が主流となり、中国が磁器の輸出を禁止してしまったことからオランダなどの外国が日本の磁器を輸入するようになりました。海外で日本磁器を見た王族・貴族はその美しさから絶賛し、「IMARI」という名でヨーロッパに知れ渡ることとなりました。世界的に知られるドイツの陶磁器メーカーのマイセンは、アウグスト王の命により「IMARI」を模した作品の製造を行わせたことにより誕生したと言われております。
この頃の江戸時代期に作られた磁器を「古伊万里」と言います。
明治に入り、伊万里焼と有田焼は産地の地名から呼び名が分けられました。
どちらも素晴らしい陶磁器を生産しており、歴史ある焼き物として有名です。しかし、現在では後継者不足により危機を迎えております。日本の価値ある伝統工芸品が今後も存続するよう、また、その価値を最大限に後世に伝えられるよう弊社も尽力していきます。