清風 与平

初代 清風 与平

清風 与平は江戸から続く京焼有名な陶芸一家です。初代清風与平は京焼で有名仁阿弥道八(2代高橋道八)に師事したと言われており、染付(青華)、白磁、色絵、乾山を非常に得意としておりました。文政初年に道八の命により、桃山の三夜莊に窯を築き楽焼を制作し始めました。1827年頃には五条橋東に開窯し、染付、白磁、色絵など様々な陶器の制作を行いました。1847年には備前岡山藩筆頭家老である伊木忠澄に招かれ、虫明焼の指導を行いまいした。1861年59歳でお亡くなりになりました。

二代 清風 与平

1845年初代 清風与平の子として生まれました。家業を手伝いながら技法を学び、種磁器の制作を行いました。のちに染付の名手と呼べれるようになり、新たに白磁浮文の制作を行いました。1873年に京都府歓業御用係となりましたが、5年後に34歳という若さでお亡くなりになりました。

三代 清風 与平

二代 清風 与平に憧れ入門をしました。与平の妹と結婚をし、のちに三代を継ぎました。釉薬の工夫を施し和モダンな作品の制作を行いました。様々な色に発色する釉薬を国産の材料だけで作り出すことは、当時の技術では相当難しかったと言われております。1893年に陶芸界最初の「帝室技芸員」となりました。この「帝室技芸員」とは、今でいう「人間国宝」のような立場であり、陶芸界からは約60年の歴史の中で5人しか選ばれておりません。「人間国宝」に選ばれた陶芸家は64年間で30名以上いることと比べると、「帝室技芸員」になることがいかに難しかったか想像できます。

四代 清風 与平

1871年に三代与平の次男として生まれました。父から技法を学び、日本画の技法を田能村小斎に師事しました。父の没に伴い四代 清風 与平を襲名しました。色鮮やかな釉薬を使い、数多くの名品を世に生み出しました。1951年にお亡くなりになりました。

 

ドームナンシー (ドーム兄弟)

ドームナンシー(ドーム社)はフランスのナンシーに現存するガラスメーカーの一つです。

1878年にジャン・ドームがラ・サント・カトリーヌ・ガラス工場の経営をすることになり、後に「ラ・ヴェルリ・ド・ナンシー」としてガラス工場の操業を開始した事から始まり、長男のオーギュスト・ドームと次男のアントナン・ドームが1891年新たに装飾工芸ガラスを制作する美術工房アトリエ・ダールを設けたことにより、その名を広めて行きました。

工房名にDaum Frèresと付けていた事などもあり、通称「ドーム兄弟」と言われています。

兄のオーギュストは1879年頃、弟のアントナンは1887年頃からそれぞれ父のガラス工場を手伝うようになり、1889年のパリ万博博覧会にテーブルウェアなどを出品しました。その後1894年のリヨン博覧会で金賞を受賞。1899年にはガラス素地に絵模様を描き、さらにガラスをかぶせて模様に奥行きを出すアンテルカレールという技術で特許を取得し、1900年のパリ万国博覧会ではグランプリを受賞しています。

初期の作品にはエナメル色彩による絵付けが多く見られましたが、1910年前後辺りから色ガラスの粉を再加熱して素地になじませるヴィトリフィカシオンという技法も使い、マーブル模様など表現する色の世界の深みや幅を広げていきました。

個人の才能を発揮した作品を中心としているエミール・ガレに対し、才能豊かな装飾美術家たちをデザイナーとして登用し運営していたドーム兄弟。創業者のドーム一族による経営は途絶えていますが、ドーム社の作品は仕上げの丁寧さに定評があり、この140年間にコラボレーションしたアーティストたちは350人以上に及びます。

そして現在もナンシーの地で高級クリスタルメーカーとして操業を続けています。

 

高橋 草坪

高橋草坪は日本の文人画家です。

文化元年頃に現在の大分県杵築市の商家・槇屋(高橋氏)休平の次男として生まれました。

本名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎と言い、草坪はその号で、他に草坪寒民、草坪間人、草坪逸人などと号しました。

幼いころから絵に興味があり画才を現わしていた草坪は同郷の長谷部柳園に画を学びましたが、文政5年に田能村竹田が杵築を訪れたのを機に竹田に入門。その後竹田に画才を認められ、文政6年頃には竹田に従って初めての京遊に出ました。

そして竹田の友人である菅茶山、頼山陽、雲華上人、浦上春琴岡、田半江ら錚々たる文人と接して学問や作画の指導を受ける中で草坪の画技は一気に深まり、竹田の教え通りに世俗的な画風に染まることなく、勢力的に画技の追究を続けて行きました。

文人画家として名声も高まりますが、天保6年頃(所説あり)病により夭折しました。著書に家屋と人物描法のみを整理した『撫古画式』があります。

 

十三代 徳翁宗守 有隣斎

十三代 徳翁宗守 有隣斎は武者小路千家十三世家元です。

名は宗守、号は有隣斎・徳翁・宗安などで、聴松宗守に師事しています。

1913年に生まれ、第三高等学校をへて京都帝国大学文学部に進み国史学を専攻し、卒業後も大学院で日本文化史の研究に当たりました。

卒業後に武者小路千家12代聴松宗守(愈好斎)の娘千澄子と結婚、12代聴松宗守には息子がいなかった為婿養子となり、53年に13世宗守を襲名しています。

大学で学んだ知識を活かし、51歳で国内初となる茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校、翌年には財団法人官休庵を設立させます。

大学での経験や学力、知識を持ち、茶儀に自らの学識を活かすなど聴松宗守と同じく学究肌の茶匠でした。

1983年の秋、古稀を境に徳翁の号を受け、1989年76歳の時に家督を長男に譲り、自身は宗安の号を襲名し隠居しました。

自分の意見を曲げず常に高みを目指し続け、茶道界において大変貴重な存在でありましたが86歳で逝去。著書に「利休とその道統」「新修茶道妙境」「茶花十講」などがあります。

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。

安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。

臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派であり、大網宗彦も茶の湯に造詣が深く、表千家の10代千宗左、裏千家の11代千宗室といった茶人らとも交流を持っていました。

他にも詩歌・書画に優れ、和歌は武者小路公隆に学び、千種有功や高松公祐、清水谷公正、賀茂季鷹らと親交し、生涯に2万余首の詠歌と3千数百の詩偈を作ったとされています。

師の跡を継ぎ黄梅院14世となった後、文政3年49歳の時に勅を奉じて開堂し大徳寺430世となりました。

晩年まで詩歌や書画、茶の湯を楽しむ悠々自適な日々を送っており、安政7年に89歳で示寂しました。

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。
 

1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田の臨濟宗大徳寺派祥瑞寺に入寺。翌1907年11歳で大友宗忠について得度を受けました。

1911年に京都紫野連合般若林に入学し、梶浦逸外、林恵鏡らと共に4年間学び、1918年より滋賀県堅田の祥瑞寺住職に就任。その後禅門高等学院教授、大徳寺山内塔頭の臨済宗大徳寺派大仙院住職、大徳寺執事長などを歴任します。

そして1954年に建仁寺住職、及び建仁寺派管長に就任。1989年まで臨済宗建仁寺派第八代管長を務めました。
 

1983年には建仁寺方丈で米寿祝賀会が開催され、竹田益州画帖「落草餘事」が記念出版されました。茶道の深い知識や見識を持っていた益州は多くの自筆書や自作茶杓を残し、茶陶器の箱書も記しています。 

1989年6月20日、京都の病院で遷化しました。

 

田中 阿喜良

田中阿喜良(本名:中島阿喜良)は1918年8月20日8月20日に大阪府で生まれた洋画家です。 彼が生まれた時代は第一次世界大戦の終わり。 この後に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦へと向かっていく、軍国主義、全体主義という …

岡田 米山人

岡田 米山人は江戸時代中期~後期の南画家です。 岡田半江はその子にあたります。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛と称し一説には彦吉とも称しました。名を国、字は士彦、通称は彦兵衛、米山人は画号です。 若いころには播磨神 …

浜野 直随

浜野 直随は江戸時代中期から後期の装剣金工家です。 1745年に生まれ、本姓は遠山といいます。 当初では中村直矩(なおのり)の下で学んでおりましたが、後に親戚関係でもあった浜野派の初代浜野矩随(のりゆき)の下で弟子として …

山田 昭雲

昭和20年代の初めごろ、農業をしながら木彫に励んでいた初代山田昭雲。 そこへ訪ねてきた棟方志功に版画を勧められた際、彫刻刀で彫り進める棟方とは違いノミを金槌で叩きながら刻む様子に「叩き彫り」という表現をされた事で「叩き彫 …

井上 稔

井上稔は1936年4月16日、京都市に生まれた日本画家です。 中村大三郎の弟子となり、日本画を学んで徐々に頭角を現していきます。 井上稔の影響かどうかは分かりませんが、兄である野々内良樹(1930~2009)ものちに日本 …

REUGE リュージュ

リュージュはスイスで生まれたオルゴールメーカーです。 創業者はシャルル・リュージュ。 彼が1865年にスイスのサンクロワに移住したところから始まります。 初めはオルゴールのついた懐中時計を作ります。 産業革命の波はかなり …

浦口 雅行

伝統的な青磁のみならず、作品にて新な技術や表現をされている陶芸家の浦口雅行さんです。ダイナミックに独特な作品によって多くの人を魅了してきました。 浦口雅行さんの作品には「浦」の文字が刻まれており、箱にも「浦」の文字の烙印 …

渡辺 武夫

渡辺武夫は出生地が東京都墨田区、出身地が埼玉県浦和市の洋画家です。 幼少期に東京都墨田区から埼玉県浦和市に移り住み、現代での高校2年生の時には画家になる決意を固めて、東京美術学校に入学をします。在学中である1938年に光 …

遠藤 昭吾

遠藤昭吾は、東京都生まれの洋画家で、川端画学校、阿佐ヶ谷洋画研究所で油彩画の基本を学びました。川端画学校は1909年(明治42年)に東京都小石川下富坂町に日本画家の川端玉章が創立した私立美術学校です。太平洋戦争の最中に廃 …

ミューラー兄弟

ミューラー兄弟とは、フランス・モーゼル地方出身のガラス工芸の一家であり、ランプなどのガラス作品を製作するメーカーでもあります。 9人の息子と1人の娘の10人兄弟を総称して「ミューラー兄弟」と呼ばれています。 普仏戦争の時 …

四代 山田常山

山田常山は初代山田常山から、四代山田常山まで続いている陶芸家です。朱泥、緑泥などの中国急須や常滑焼を中心に作品が多く作られています。四代山田常山は、1954年に愛知県常滑市にて生まれました。 1980年に美濃陶芸展で長三 …

松久 宗琳

松久 宗琳さんは京都生まれの正統派京仏師です。 1926年に仏師 松久 朋琳の長男として京都市に生まれました。幼少期は画家を志し絵画の勉強に励んでおりましたが、病を得て父の元に帰り、仏像彫刻の道を歩み始めます。 1962 …

野呂介石

野呂介石は江戸時代後期に活躍した日本の文人画家です。 主に花鳥水墨画を得意とし、詩文にも定評がありました。 紀州藩に仕えており、祇園南海や桑山玉洲と共に紀州三大南画家と呼ばれています。また当時は長町竹石、僧愛石らと共に「 …

山下 浦斎

山下甫斎は、1944年、石川県生まれの塗師です。 父の山下清峰より漆芸技法を学び、1978年に2代目山下甫斎を襲名しました。 山下甫斎の作る作品は、造形的な魅力だけでなく、侘びを感じさせるような美しい仕上がりに多くの茶人 …

柴崎 重行

柴崎重行は北海道八雲町にて、埼玉県からの移住二世として誕生しました。 現代では北海道の名産となった木彫りの熊ですが、柴崎重行はその先駆け的存在となった巨匠です。 今から約100年前、旧尾張藩からの移住が多かった八雲町はと …

金谷五郎三郎

金谷五郎三郎さんは、京都を代表する錺鋳物師で、代々同名を世襲しております。 茶道具や花器の製作において知られ、近年では装身具や建築装飾等の分野も手がけるなど、伝統の技に新たな活用を見出しています。 作品の特徴は、銀や銅、 …

村田 省蔵

村田 省蔵は、1929年石川県金沢市の生糸問屋の5男として生まれました。1944年に滋賀航空隊に入隊するが、1945年に終戦を向かえ中学に復学するという経歴を持っています。 復学後に第1回現代美術展にて宮本三郎の作品に惹 …

浮田 克躬

浮田 克躬(うきた かつみ) 東京都出身の画家になります。小学時代は、集団生活になじめず不登校となり、専ら好きな絵を書いていたそうです。 もともと、絵は好きでしたが1934年に第1回聖戦美術展をみて本格的に画家を志します …