稲嶺盛吉は、沖縄が生んだ琉球ガラスの現代の名工です。
日本内外に琉球ガラスの美しさを知らしめる沖縄を代表するガラス職人です。
琉球ガラスは「炎の芸術」とも呼ばれています。1300度近い熱で真っ赤に溶けたガラスと、鉄のパイプを使い様々な色と形へと姿を変え美しい器が生まれます。琉球ガラスは比較的歴史は浅く、100年ほど前に製造が始まったとされています。沖縄に滞在した米兵が本国へ戻る際の土産品として次第に人気を博すようになり、県外・国外への販売が増えていきました。
その後、鮮やかな色彩を特徴とするガラス「琉球ガラス」が沖縄の工芸品として確立しました。沖縄だからこそ生まれた琉球ガラスは沖縄県内の高い志を持った人たちの技術を持って作られるものであり、技術者はそこに誇りを持っています。
そんな、琉球ガラスを高い技術によって工芸品にまで押し上げたのが稲嶺盛吉です。1954年に沖縄最古の琉球ガラス老舗工房である奥原硝子製造所に入社し琉球ガラスの技術を磨きました。1988年に自身の工房である「宙吹きガラス工房 虹」を設立し、自身でしか作ることのできない琉球ガラスを製作していきます。
稲嶺盛吉の作り上げる作品にはいくつかのシリーズが存在します。代表的なシリーズは、泡ガラス・備長炭・カレー泡・土紋・アイスカットの5種です。それぞれに特徴があり名前の通りにその素材が使われていたりします。稲嶺盛吉の作品は琉球ガラスの伝統をしっかりと継承しながら、新しい発想で沖縄らしさを表した作品です。先に紹介したシリーズ以外にもブラウン管を使用した黒真珠と名付けられた幻のシリーズや、備長炭で作られる珊瑚のような作品をさらに改良した紅珊瑚という作品など、沖縄や海を感じることのできる作品を多く作り上げています。独創的で力強い作品は琉球ガラスの美しさを最大限に引き出しています。
1936年に富山県高岡市で生まれました。
その後、日展評議員の村田吉生氏に師事し原型(ペンモールド)を修業、1958年には高岡市展高岡市長賞受賞、日展に初入選(以後6回入選)、1964年には日本現代工芸展に初入選(以後数回入選)します。細かな部分にわたる装飾制作を得意とされる金工作家です。
サルバドール・ダリはスペインが生んだ20世紀を代表する最も多才な画家です。絵画はもちろんのこと彫刻、版画、舞台装置や衣装のデザイン、映画制作と実に幅広い表現活動を行っていました。
そんなダリは6歳の頃に初めて風景画を手掛けてから絵画に興味を持ち始めます。マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学、多くの知人を作り多くのことを学びます。しかし20歳の時に、教授を批判し学生の反乱を指導したとして停学処分を受けます。さらにはその年に反政府活動の疑いで短期間投獄されています。在学中に複数回個展を開くなど精力的な活動を行う反面美術史の答案の提出を拒むなどして放校処分を受けています。
その後のダリは、パリやアメリカ・ロンドンなどで個展を開催、ピカソやミロ、ガウディ、フェルメール、ミレーなどの影響を受け、新古典主義やキュビスム、パリのシュルレアリスム、二重像(ダブルイメージ)などを描くようになります。多くのものに影響された背景には、表現することを突き詰めたダリの探求欲に起因しています。
ダリはシュルレアリスム(超現実主義)を代表する画家です。シュルレアリスムとは意識のもとに閉じ込められている無意識の欲望を描くものと言われています。文章での説明は難しく、ダリの作品がまさにそれであると理解してもらうことが一番の近道かもしれません。ダリは生活の中で受けたインスピレーションをダリのイメージで描いて作品を作り上げます。つまり作り上げる作品はダリの夢や妄想などのイメージを形にしたもので、意識と無意識の狭間こそが本当の現実であるという考え方がシュルレアリスムなのです。
そんなダリの有名作は、日本の美術の教科書にも載っていたことのある「記憶の固執」です。時計が溶けたカマンベールチーズのようにぐにゃぐにゃしている作品で、見覚えのある方も多いかと思います。絵画以外にも実は日本でも身近にダリと関わっているものがあります。それは世界的に人気のお菓子である「チュッパチャップス」です。チュッパチャップスのロゴのデザインはダリが作成したもので全世界共通して同じものが使われています。
南口閑粋は大阪府出身の陶芸家で、雅やかな絵付けで人気のある作家で、廃窯となっていた杣山焼を再興させた人物です。
閑粋は幼少期を大阪で過ごし、京都府立陶工高等技術専門学校を卒業後、龍谷窯の初代宮川香雲や千家十職の土風炉・焼物師である16代永楽善五郎を師事した後、独立して開窯します。
独立後は当時廃窯となっていた杣山焼を再興させるなどの活躍を見せています。
閑粋は”乾山写し”に優れた作家でもあります。
乾山写しとは江戸時代に活躍した、屏風絵などでで有名な画家・尾形光琳の弟である絵師・尾形乾山の模様を模した作品のことです。
閑粋の作品は、鮮やかで生き生きとしたモダンなデザインである乾山写しとマッチし、より魅力的に乾山の模様を引き出してくれています。
乾山写し以外の作品も、優れた色彩感覚から生み出される雅やかな作品は見る人を魅了させてくれます。
峯岸勢晃さんは、1952年、埼玉県三郷市生まれの栃木県那須町に工房を構える陶芸家です。
音響メーカーに勤めていたが以前から興味を持っていた絵を描きたいと思い退社。その後、会社の先輩の同級生が長野県の小布施にて「奥信濃焼」という陶器を作っていることを聞き遊びに行ってみました。すると、地元の畑の黄褐色の土を使い、リンゴの木の灰を加えた釉を掛けて焼き上げる陶器を初めて見て、面白さと不思議な魅力に奪われ、そのままそこで修行を始めました。
峯岸勢晃さんは、中国の宋時代を頂点とする青瓷や朝鮮の高麗青磁に強く惹かれ、青瓷を主に焼いておりました。その中で、過去にない物を目指すという大きな目標を持って取り組まれ、約20年の研究期間を経て、偶然や幻と言われた「窯変青瓷」の焼成が成功し、「窯変米色青瓷」と名付けられました。窯変とは、炎の具合や釉薬の物質の関係で、予期しない(面白い)色や文様に変わることを言います。峯岸勢晃さんの生み出す作品は米色青瓷という独特な色合いと文様がありながら、どこか落ち着きがあり柔らかい印象の作品が特徴です。
峯岸勢晃さんは大変研究意欲の強い方で、今までに青瓷・米色瓷・翠青瓷・月白青瓷など様々な青瓷を製作されてきました。独自の魅力を作り上げたそれらの作品はますます評価が高まっており、今後も活躍が期待される陶芸家のお一人です。
横山白汀は、明治34年井波町で生まれの木芸家。
日展という日本最大の総合美術展覧会の評議員でもあります。
井波彫刻の名家、横山作太郎の長子として生まれ若くして木芸の道に進みます。そして昭和16年第4回文展に「木目込屏風」が入選それ以来、井波彫刻に美術工芸の価値を底上げし今の歴史的価値、芸術的価値を築き上げた先駆者でもあります。
新日展第2回(昭和34年)、第7回(昭和39年)では審査員をつとめ、昭和45年改組第2回日展「鎮魂歌<漆>三曲屏風」が会員中の授賞として桂花賞に輝きました。
その経歴から井波美術作家協会、現代工芸美術協会、富山会富山県工芸作家連盟の各委員長を歴任しました。井波彫刻においての重要人物です。