西村計雄さんは1909年の北海道出身の画家です。
幼少の頃から画家になることを志し、1929年に東京藝術大学に入学をしました。同期として岡本太郎さんや東山魁夷さんがいます。
この頃は家族をモチーフにした作品を手掛けており、戦後である1949年からは早稲田中学校・高等学校の教師をしておりましたが、1951年には単身渡仏をします。パブロ・ピカソの画商であったカーンワイラー氏と出会い、1953年パリを中心としたヨーロッパ各地での個展を開催いたし、作品の多くをフランス政府が買っていきました。1971年にフランス芸術文化勲章を受勲を致しました。1973年広島県にあります「広島平和記念資料館」300号の作品を寄贈されました。その後8年の歳月をかけ、300号の大作を20点作成してきました。
1990年、1992年に「西村計雄美術館」が2店オープンします。1995年には自身の地元でもある共和町に100点を超える絵画を寄贈します。これをきっかけに1999年地元の北海道共和町に「西村計雄美術館」が作られ、後に絵画5000点や愛用していた道具など数多くのものが寄贈されています。
2000年アトリエにて逝去されました。
加藤春岱(かとう しゅんたい)は幕末、瀬戸赤津村の陶工です。
1802年瀬戸の窯屋に生まれ、名を宗四郎と言います。
早くから才能を開花させ、15歳にして父・景典(春山)の跡をつぎ、御窯屋に列しています。
御窯屋(おかまや)とは、初代尾張藩主・徳川義直が行った瀬戸の復興政策の一種です。
現在でも陶器のことを「瀬戸物」と呼ぶくらいに瀬戸は焼き物が盛んですが、この時代、桃山期に陶工が美濃へと移った影響で、その力は衰えていました。そこで瀬戸の窯業を再び盛んなものにするべく、陶工(唐三郎・仁兵衛)を呼び出します(後に、太兵衛家もここに加わります)。苗字帯刀を許可、藩から扶持を支給し、瀬戸における陶磁器の生産と、また名古屋城内でのお庭焼(御深井焼)の指導を命じたことに始まる、由緒ある窯元の家です。
1838年に罪を犯して御窯屋職を退職。名古屋市昭和区の川名町で制作をすることになりました。この頃の作品が多く銘印が押され後世に残されたとみられています。
1798年(寛政10年)に生まれる。
父は加藤和泉守国秀でその三男として生まれ育ち、出羽国米沢藩主上杉家の藩工となる。兄に山形藩工の加藤綱秀がいる。
水心子正秀に師事したとされ、その後江戸に移住して修行し、さらに大阪に上がり、鈴木治國に師事したのち西国を遊歴。そして熊本に駐槌。
1823年(文政六年)頃より江戸麻布にあった上杉家中家敷1856年(安政三年)には長運斎を息子の是俊、二代綱俊に譲り、銘を長寿斎と改め1823年(文政六年)頃より江戸麻布の上杉家中家敷に住み、1863年(文久三年)十二月六十六歳で没しました。
坂倉新兵衛は山口県長門市深川にある萩焼の窯元です。萩焼は慶長(1592年~1598年)の折、毛利輝元公が朝鮮李朝の陶工、李勺光、李敬を日本に招いたことによって始まったと言われております。
半世紀後に、李勺光の子である山村新兵衛光政の高弟、赤川助左衛門、助右衛門、蔵﨑五郎左衛門の一統らが、深川三之瀬の地に移り窯を築き上げました。その後に山村新兵衛光政の子である山村平八郎俊も移住し、潘の御用窯として「三之瀬焼物所」が創業されました。これが萩焼深川窯の始まりだと言われております。
当代である十五代・坂倉新兵衛は1974年に作陶の世界に入りました。東京芸術大学を卒業後に同大学院にて陶芸専攻を修了致しました。その後、藤本能動や田村耕一に師事し修行しました。
1987年に十五代坂倉新兵衛を襲名いたしました。その後自己表現の方法として「象嵌」という技法を取り入れ、萩の土味を生かした温かみのある作品を作り続けております。
2013年には県の無形指定文化財に指定されております。
月形 那比古は鬼志野創始者であり、「炎の陶工」と謳われた日本の陶芸家です。
1923年、新潟県糸魚川市に専業農家の5人兄弟姉妹の三男として生まれます。
父は石刻匠で母は華道家という家庭環境でしたが、5歳の時に不慮の事故で父が急逝し、母子家庭で育てられます。家計が苦しかったので、旧制中学時代に国鉄糸魚川駅で実家で採れた野菜を戸板に乗せて販売し、家計を支えました。
新潟県立長岡工業学校へ入学し在学中に荒川豊蔵に運命的な出会いをした月形那比古はのちに、荒川豊蔵の創作精神と美学に傾倒していきます。
新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年に学徒出陣、第二次世界大戦へ参戦しました。戦後、復学し日本大学芸術学部を卒業します。
美濃の岐阜県に住居兼作業場を構え,1955年頃に独自の研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見探求、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する「鬼志野」を発表し、昭和陶芸界に衝撃を与えました。
1964年当時、陶芸作家という言葉は一般的認知度は低く、当然陶芸並びに創作活動だけでは食べていくことは出来にくい状況でした。
その頃、日本における現代舞踊の第一人者として有名だった石井漠の一番弟子の石井みどり芸術バレー団の舞台監督を任されることになり、創作活動の一環として、舞台監督を約5年ほど挑戦します。挑戦するも食い足りなく、求めている心境も満たされないと感じるようになります。
自分を見つめ直し模索していた月形那比古は第二次世界大戦での悲惨な体験を元に、彼らのためにも自分は出家し、尺八を法器として一千日の托鉢修行を行います。托鉢修行から受けた禅の精神を反映させた作品も多くそれらは「禅の陶芸」「禅陶」とも言われました。
月形那比古は陶芸の他にモダンバレーの舞台監督、絵画、映画、写真、建築、篆刻、書、彫刻などジャンルを超えた多彩な才能を発揮しました。
また、1970年代以降には鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野が紹介され、海外の陶芸家などにも大きな影響を与えました。
伊勢崎 満は、岡山県重要無形文化財保持者であり、伊勢崎淳(人間国宝)の兄です。
1934年岡山市備前市に岡山県重要無形文化財の細工師であった、伊勢崎陽山の長男として生まれました。
岡山大教育学部特設美術科を中退後は、家業の作陶を手伝いながら修業しました。弟淳とともに備前で初めて中世の半地下式穴窯を復元し、古備前の再現に尽力しました。器肌に線条にでる火襷の技法を父から受け継ぎ、茶器や花器などを制作しました。
備前焼のルーツは、古墳時代に遡ります。須恵器(すえき)の製法が変化し、鎌倉時代~桃山時代にかけて、現在のような形に落ち着きました。
堅くて割れにくいため、多くの茶器や茶陶として愛用され、庶民の日用品として大人気になりました。
1982年に国の伝統的工芸品に指定されるなど、現代にも親しまれています。また、2017年4月には、「きっと恋する六古窯 - 日本生まれ日本育ちのやきものの産地 - 」として日本遺産に認定されています。
備前焼は、「釉薬」(素焼きの陶磁器の表面に塗る薬品)を一切使用せず、絵付けもしないという究極にシンプルな焼き物。
1200〜1300度の高温で焼き、土の性質や、窯への詰め方、窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって模様が生み出されます。一つとして同じ色、同じ模様にはならない、手作りの味わい深さが魅力で、使えば使うほどに味わいが増していくのも特徴です。