山田常山は初代山田常山から、四代山田常山まで続いている陶芸家です。朱泥、緑泥などの中国急須や常滑焼を中心に作品が多く作られています。四代山田常山は、1954年に愛知県常滑市にて生まれました。
1980年に美濃陶芸展で長三賞を受賞しました。1984年に名古屋名鉄百貨店での個展を開催し、以降毎年開催しています。1986年には東京銀座和光での父子二人展を開催しました。2005年に父である三代常山が逝去し、2006年に四代目山田常山に襲名しました。襲名以前は本名である絵夢として活動されていました。
三代常山は「使いやすさを追求していくと美になる」と考えていました。四代常山も、茶器はただお茶を入れる道具ではなく美を追求した芸術品だと考え、実用性と使い勝手の良さを追求した作品作りを目指しております。偉大な師でもある父からは直接技術を教わった事はなく、すべてを目で見て覚えたそうです。良い土に他の土をブレンドして使うことで、今も変わらずに朱泥などの深い色合いの高品質な作品を、現代まで続けております。
急須の常山といわれ有名ですが、四代は茶器をはじめ、食器や花器の作品を作り、どれも大変人気があります。日本を代表する有名料亭が四代常山の作品である食器を気に入り、数多く収集しているそうです。
松久 宗琳さんは京都生まれの正統派京仏師です。
1926年に仏師 松久 朋琳の長男として京都市に生まれました。幼少期は画家を志し絵画の勉強に励んでおりましたが、病を得て父の元に帰り、仏像彫刻の道を歩み始めます。
1962年には京都仏像彫刻研究所を設立しました。こちらの施設は現在「松久宗琳佛所」と改名されており、宗琳さんの次女である松久 佳遊さんが所長として遺志を受け継いでおられます。
1964年に仏教美術展を主催し、非常に優れた作品の数々を発表されました。1973年には仏像彫刻、仏画、截金を制作する教室「宗教芸術院」を設立し、多くの方の指導に当たられました。また同年に写真や図版で分かりやすく解説した「仏像彫刻のすすめ」を父 朋琳さんと共著されました。
1992年3月にお亡くなりになりました。
京都金閣寺の「岩見観音像」「四天王像」大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」は父 朋琳さんと共に宗琳さんが制作されたもので、現在でも多くの方に親しまれております。
野呂介石は江戸時代後期に活躍した日本の文人画家です。
主に花鳥水墨画を得意とし、詩文にも定評がありました。
紀州藩に仕えており、祇園南海や桑山玉洲と共に紀州三大南画家と呼ばれています。また当時は長町竹石、僧愛石らと共に「三石」とも称されていました。
その生い立ちは紀州和歌山城下の町医の元に生まれます。10歳の頃に中国の画法を独学で得ようとしましたが上手くいかず、14歳で上京。その際に長崎派の画法を習得します。
一度郷に戻っていますが21歳で再び上京。池大雅に師事し南画を学び始めます。
京都と和歌山を10年間行き来しながら毎日山水画を描くことを日課としていました。
28歳の時に師の池大雅を失う。その後桑山玉洲らと交流し名を成すようになります。
頼山陽や田能村竹田らとも交流があったとも伝えられています。
介石は画は人の為では無く、己の楽しみの為とし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、画を求道しました。
山下甫斎は、1944年、石川県生まれの塗師です。
父の山下清峰より漆芸技法を学び、1978年に2代目山下甫斎を襲名しました。
山下甫斎の作る作品は、造形的な魅力だけでなく、侘びを感じさせるような美しい仕上がりに多くの茶人が魅了されています。
塗師として高い評価を得ていた父の山下清峰より、幼少の頃から塗師としての技術を学び実力を伸ばしていました。
そして驚くべきところは、下地や蒔絵などの技法は独学で習得しており、独自の技法でありながら新しさや古さを感じさせない伝統的な美しさを表現しており、それでいて現代風な作品作りを展開しております。
作品を手掛ける上でのこだわり、飽くなき探求心は作家というより職人と評されるほどであり、展覧会や個展には出品せずに制作活動を行っております。
そんな山下甫斎の代表作は、「雲龍蒔絵大棗」、「波車蒔絵大棗」などです。
今後、骨董業界において注目されていく人物であることは間違いないでしょう。
柴崎重行は北海道八雲町にて、埼玉県からの移住二世として誕生しました。
現代では北海道の名産となった木彫りの熊ですが、柴崎重行はその先駆け的存在となった巨匠です。
今から約100年前、旧尾張藩からの移住が多かった八雲町はとても貧しい村でした。その時に、当時の尾張徳川家当主、徳川義親が八雲町を訪れ、村民の生活を改善するために木彫りの熊の生産を試みたことがきっかけで、現在の木彫り熊の名産品が生まれました。
柴崎重行も木彫り熊の製作に勤しみ、多くの作品を手掛けていきました。
当時の木彫り熊は現代のようなリアルな姿ではなく、毛並みなどを彫らない「抽象熊」と呼ばれるものでした。そして、それらは主に芸術品ではなくお土産品として販売され、八雲町の人々の収入源となっていました。
その中で、木彫り熊をお土産品ではなく芸術品に高めていったのが柴崎重行です。
柴崎が作る熊は手斧で割った面を主として掘り進める「ハツリ彫」という技法で作られ、その技術の高さに人々を驚かせました。
また、昭和初期に発足した八雲農民美術研究会では指導的立場として活躍され、木彫り熊そのものの芸術性を高めていきました。
柴崎が作る独特な愛くるしさのある熊は瞬く間に人気となり、1970年代には北海道を飛び出し東京で展覧会に出品するなど多くの方から注目を集めました。
現代では時代の変化とともにリアルな木彫り熊が名産品として制作されており、抽象熊を目にする機会はほとんどありません。
その為、抽象熊の木彫りは「幻の熊」と呼ばれています。
しかしその芸術性の高さから現代は大きく見直されることが増え、骨董業界だけでなくクリエイターなども含め徐々に人気を高めていっています。
金谷五郎三郎さんは、京都を代表する錺鋳物師で、代々同名を世襲しております。
茶道具や花器の製作において知られ、近年では装身具や建築装飾等の分野も手がけるなど、伝統の技に新たな活用を見出しています。
作品の特徴は、銀や銅、鉄などで作られた作品に「五郎三色」という独自の金属着色法によって特徴的な風合いを生み出すところです。そして、この技法は父子相伝の秘宝として古くから今においても受け継がれ続けています。
初代の金屋五郎三郎さんは400年ほど前に遡ります。
屋号を「金屋」と称して銅器着色法を工夫し、純銅を高度の熱で鮮やかな緋色に変化させた緋銅色は特に称賛を博して「五良三色」と謳われるようになりました。
また、豊臣秀吉に命ぜられて茶道用火鉢を「五良三色」で造ったところ、大いに賞美を受けて比類ない誉を得ております。
以後、この技術は代々の秘伝として伝えられるようになりました。
現在の屋号は「金谷」となっており、当代は16代まで続いております。
金谷五郎三郎は代々多くの優れた作品を残しており、煎茶道具から茶道具、また骨董品から箱物まで、多くの作品が残されております。
鍛金や鋳金、彫金などの伝統的な金属工芸技法は現在でも大変人気であり、特にアジアをはじめとした世界中で高い評価を受けております。