カールツァイス(Carl Zeiss)はドイツの光学機器メーカーです。
1846年、カール・フリードリヒ・ツァイスが顕微鏡製作の工房をイエナに人類への貢献という情熱のもと設立したのが始まりです。
当時はレンズの性能において理論的な裏付けがなかったことに疑問を抱いていたツァイスはエルンスト・アッベに協力を依頼し、光学理論を完成させることに成功しますが、材料となるガラスがなかったことからアッベは化学者オットー・ショットにガラスの開発を依頼し、色にじみを抑える「アポクロマートレンズ」の開発にも成功しました。これは現在でもカメラレンズや屈折式望遠鏡において特殊低分散レンズ(EDレンズ)や蛍石(フローライト)レンズを用いた製品には「APO」や「アポクロマート」と製品名につくものが多くあり、広く浸透しています。
日本では日露戦争でツァイス製の双眼鏡が使われ戦果を残したことが日本独自で光学機器を作られるようになり、現在のNikonやCanon、PENTAXなどのカメラや光学機器メーカーが生まれるきっかけとなりました。
また、アポロ11号の月面撮影にツァイス製のレンズが使われており、20世紀の科学の進歩に写真や映像の技術の発展が大きく関わっていますが、それを支えてきたのもまたツァイスであるとも言えるのです。
現在ではSONY製のカメラレンズで”Carl Zeiss”の文字を見ることも多く、写真や映像、またそれ以外の光学機器にどんな発展を見せてくれるのか、今後も注目です。
ジュモーは現在のアンティークドールと言われる、人形制作が盛んだった19世紀フランスを代表する工房の一つです。
当時の人形は服を着飾る為の言わばマネキンのようなもので人形自体を愛でることはほとんどありませんでした。工房の創始者であるピエール・ジュモーも1851年のロンドン博覧会で衣装人形デザイン賞を受賞しましたが、これはあくまでも衣装に対しての評価にすぎなかったことから、人形自体の制作に力を入れ1855年にはパリ博覧会・ロンドン博覧会では衣装だけでなく人形の美しさも評価されるようになりました。
ピエールの後を継いだ息子のエミールも優れた作家で、ファッションドールの優美さを引き継ぎつつもベベドール(子どもの姿をした人形)のあどけない姿は数々の賞を受賞するなど、人形産業の発展と確固たる地位を築くことに大きく寄与しました。
ジュモーの人形は人形そのものの美しさももちろんですが、衣装の作りの良さも特徴で当時の服を着ているかどうかだけでも大きく価値が変わります。
また、ベベドールは当時の貴族や上流階級の子女向けに作られていたこともあり優美で格式が高く、ブリュ、ゴーチェなどと並んで人気の高いジュモーの作品は現在でも多くのリプロ(復刻版)の作家や工房が制作しており、あどけないその表情は世界中の多くのファンを虜にしています。
林隆一郎は1942年生まれ、岐阜県土岐市出身の陶芸家です。
1974年に第21回日本伝統工芸展入選、1975年朝日陶芸展入選、1976年東海伝統工芸展入選、1979年第6回美濃陶芸展中日奨励賞、1982年独立と活躍の場を広げながら活動しました。若い頃より60年以上陶芸と向き合い続け、織部や粉引などに代表されるような多くの名作を生み出されています。茶碗から、オブジェ、食器など経験と感性から作り上げる作品は、手に取る人を魅了します。
彼はサインに遊び心を加えており、中には音符のデザインのものもございます。それは窯の中で制作する青磁などの作品に施してある貫入がキンキンと音を奏でるように聞こえたからだそうです。
愛媛県生まれの洋画家で、生涯に渡り海と釣りをこよなく愛した作家として知られ、海や森をテーマにした作品を多く描きました。原色で構成されている鮮やかな作風が特徴で、豪快なタッチと、鮮烈な色彩で大胆な配色が融合する作風が印象的です。
1924年に第11回二科展に「静物」が初入選を果たすと、1928年に柘榴社に入会し、第15回 二科展で「夜の床」が樗牛賞を 受章し、翌年の第16回二科展で「The Full Moon」が二科賞を受章し、1933年には二科会会員となります。戦後も二科展に出品を続け、1955年に鈴木信太郎らと同会を退会し、同志らと一陽会を結成し主要作家として没年まで制作を続けました。
今回の作品は、野間さんの作品の中でも特に人気のある『薔薇』が描かれた作品で4号と少し小さめではございますが、絵の状態、サイン、シールなど含め上記の評価額となりました。状態によっては評価額が変動致しますのでご了承下さいませ。
アンドレ・ヴィギュド(Andre Vigud)は1939年にモロッコに生まれます。
彼の作品には世界中にファンがいますが、日本では知らない方も多いかもしれません。
世界各地で個展を開催し、日本でも1985年に個展を開催しています。
そんな彼の経歴はあまり語られていませんが、1970年代後半からその名を徐々に広げていきます。
ナントやツールといったフランス、ニューヨークやそして前述の通り日本でも個展を開催し世界へと名を広げていきます。
日本での個展開催の前年である1984年には東京芸術祭近代芸術賞銀賞を受賞、また1986年にはニューヨーク国際芸術祭近代芸術賞銅賞を受賞するなど世界に認められた画家と言えるでしょう。
彼の絵の特徴は油彩画法を用いたシンプルな構図にシンプルな色使いというところでしょうか。
余分なものが無い彼の絵は、見るものの心にスッと入り込んでくるかのように、私たちの目を惹きつけます。
そのシンプルさ故に様々な場所に飾っても溶け込める絵画。
それが、アンドレ・ヴィギュドと言えるでしょう。
木村表斎は、江戸時代末期から明治の初めにかけて活躍した京塗師です。業を継いだ弟の弥三郎が二代目としても活躍しました。
初代は滋賀県の近江高島郡小川村に生まれ、京都へ出た後に塗師・柴田藤兵衛に師事しました。その後は下京にて制作を続けます。
二代・弥三郎の弟子には鈴木表朔や三木表悦がおり、「表派」と呼ばれる京塗の一派を築きました。木村表斎は四代目まで続きましたが、1943年にその看板を下ろしています。
表斎の作品では飲食器が最もメジャーであり、中でも真塗(しんぬり)や洗朱の根来塗を得意としました。真塗とは黒漆を使った漆立てのことで、表面が艶やかに仕上がるのが特徴です。洗朱(薄めの朱色)の根来塗は、黒漆の下塗りに洗朱の塗りを施したものです。表斎は、黒漆の扱いに秀でた作家であったと言えます。
表斎の技法は、鈴木表朔や三木表悦、また自身の子孫でもある川瀬表完など「表派」の京塗師たちが受け継いでおり、彼らの作品を見てみたときには、随所に表斎作品の色味を感じられるかもしれません。