皆様、こんにちは。 緑和堂 名古屋営業所でございます。
今回、ご紹介させて頂く商品は青木 木米 作『急須 湯呑』になります。
こちらは名古屋市にお住いのお客様より出張買取のご依頼をしていただき、成立となりました。
青木木米は、江戸後期を代表する京都の「文人陶工、南画家」です。
永樂保全、仁阿弥道八とともに「京焼の幕末三名人」とされています。
青木木米は、1767年明和4年京都祇園縄手(ぎおんなわて)の茶屋「木屋」に青木佐兵衛の子として生まれました。
号は木米のほか青来、百六山(散)人、古器観、九々鱗、聾米(ろうべい)など数多くあります。
富裕な家系の子弟である木米が陶工の道を選んだ動機は、江戸時代中期の日本の文人・文人画家である、大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)宅で中国清(しん)朝の朱笠亭(しゅりゅうてい)の著『陶説』を閲読したことからです。
また書画に巧みな江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。京都の高芙蓉(こうふよう)を訪ねて絵画や書の手ほどきを受けました。 木米は古銅器や古銭をも賞翫(しょうがん)するあまり鋳金技術も習得していたといわれています。江戸後期に流行した中国趣味に存分に浸って成長した木米は、書画、工芸諸般の技術を体得しましたが、結果としては南画と煎茶(せんちゃ)道具を主体とする陶磁器に彼の才能は絞られていきました。 陶工としての木米は、江戸時代中後期の陶芸家である、建仁寺に住んでいた奥田穎川(えいせん)に師事し、穎川の始めた磁器製法を煎茶道具に応用し、中国の染付(そめつけ)、赤絵、青磁、交趾(こうち)焼の技術と様式を受け止めつつ、南蛮焼(東南アジアの焼締陶(やきしめとう))、朝鮮李朝(りちょう)時代の陶磁の作風も加味して、江戸後期らしい多種多彩な焼物を残しました。 1824年(文政7)58歳のころ、彼の作画や作陶がもっとも円熟した時期に、耳が不自由になり聾米の号を使い始めました。南画では『兎道朝潡図(うじちょうとんず)』『新緑帯雨図』『騰竜山水図』などが有名です
1833年5月15日に亡くなります。
今回のお品物は青木木米の代表的な煎茶器の作品でであるという事、作品自体の出来が良いため、今回の評価額となりました。
共箱がない場合や状態によっては価格が変動致しますのでご了承下さいませ。
緑和堂では、青木木米の作品を強化買取中でございます。
もちろん、それ以外のお品物もお取扱い可能ですので、ご自身のコレクション整理やお片付けで出てきたお品物等ございましたら、是非お気軽にお問合せ下さいませ。
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